2012年5月30日水曜日


1:ちーぴっと(大阪府):2010/11/03(水) 16:05:05.18 ID:Yx9An/36P

2ちゃんねるで誹謗…北大生の低レベル悪口

今回は、先々週金曜(22日)に判決公判が行われた畠山育人被告人の裁判の話。
罪名は、名誉毀損。事件の中身は逮捕時の記事から。

7月11日投開票の参院選比例代表に「たちあがれ日本」から立候補し落選した拓殖大客員教授の藤井厳喜氏(57)をインターネット掲示板「2ちゃんねる」で誹謗中傷する書き込みをしたとして警視庁小岩署は、名誉毀損の疑いで、北海道大学理学部4年生畠山育人容疑者(23)を逮捕した。

同署によると、畠山容疑者は、「今年4月頃に2ちゃんねるで藤井氏を知り、私の思想と合わず気に食わなかった」と供述している。法廷には被告人の父親が情状証人として出廷。弁護人からの質問に対して、今後の監督を約束した後、検察官からの質問です。

検察官 「今、息子さんは保釈されていますけど、ネット環境は?」
証人 「あります」
検察官 「なくすおつもりは?」
証人 「学業のため、ネットなしでは……」
検察官 「それは学校からの指示なんですか?」
証人 「はい」
検察官 「息子さんは留年していますよね。その理由はなんですか?」
証人 「ネットに夢中になって、授業に参加しなかったと聞いています」
検察官 「それこそ、ネットは停止した方がいいのではないですか?」
証人 「切断して、学業を続けられるのであれば……」

裁判官 「それはそうなんだけど、今後どうしなきゃいけない? 何を変えなきゃいけない?」
被告人 「ネットにハマって、留年して、そして、こんなことをしたのは、学問も生活もおろそかになってたからだと思います」
裁判官 「学業以前に人間として、どう考えていくかだよね。……それは、……君もわかっているな」


8:ドンペンくん(兵庫県):2010/11/03(水) 16:06:24.08 ID:2Z/fQVar0

またネットは悪かw

 

58:アメリちゃん(三重県):2010/11/03(水) 16:13:47.74 ID:6MFIKDfb0

2012年5月18日金曜日


昭和24年3月

日本基督教団「信仰問答」日本基督教団信仰職制委員会より

聖書はどのような書であるか

聖書は神がそのみ旨を啓示するために与えたもうた神の言葉であって、預言者と使徒が御霊にみちびかれて書き記したものであり、教会がこれを聖典として受け入れ、信仰と生活との唯一の規範としたものである。

聖書は何を教えるか。

旧約は律法と預言とをもってイエス・キリストを証しし,新約は、その成就としてイエス・キリストの福音を告げ知らすものである。

その福音とは何であるか。

福音とは喜ばしい音ずれの意味であって、神がイエス・キリストによって救いの恩寵と真理とを掲示したもうたことである。

2012年5月16日水曜日


その意味をよく知らず、やり過ごしたりしがちな、普段使わない葬儀用語や死にまつわることばの意味を考えます。

【不帰(ふき)の客】
再び帰らない客、すなわち死ぬということを婉曲に言ったことばです。「父はついに不帰の客となった」などというように使います。

【訃報(ふほう)】
訃音(ふいん)、悲報ともいいますが、人の死を知らせる知らせのことをいいます。"訃"のつくりの"ト"の文字は「倒れる」という意味で、"訃"という文字だけで「死んだ知らせ」という意味があるのです。

【不例(ふれい)】
普通ではないという意味から、高貴な人の病気のことを指すことばです。

2012年5月15日火曜日


 日本におけるイスラム教は今回4回目で、ラストとします。

 以前のものは、以下です。

  ■日本におけるイスラム教 〜一夫多妻制〜
  ■日本におけるイスラム教 〜女性に差別的なのか?〜
  ■日本におけるイスラム教 〜お祈り、礼拝とスカーフ〜

 イスラム教徒が日本で暮らす上でかなり厄介なのが、葬儀の問題のようです。

 日本式の葬式で手を合わせてもよい?(要登録 日経ビジネスオンライン)では、日本人女性ムスリムが同じイスラム教徒を内部から批判しています。

"そもそも、葬儀に参列することを嫌がるムスリムたちは、なぜ嫌がるのだろうか?

 この日本人女性ムスリムの見方は手厳しい。

 「頭の堅いイスラム教徒って多いですから。堅いっていうか自分たちの宗教こそがすべてだと思っている。だから日本の宗教は恐らく邪教なんですよね。そこで行われる儀式に参加することは邪教の儀式に参加することになる」

 イスラム教がアラビア半島から世界中に広まる中で土着の文化や慣習と混ざり合うこともあった。そのため、イスラム教の知識を生活の中で親から授かった外国人ムスリムの中には、イスラム教の教えと自国の文化・慣習を混同している人がいる。 外国人� ��スリムと結婚するために入信した日本人ムスリムは、イスラム教の知識がほとんどない場合が少なくない。外国ムスリムである配偶者に「これがイスラム教での正しいやり方だ」と言われると反論することは難しい。

 このため、この女性は、だからこそ日本人ムスリムがイスラム教をきちんと勉強するべきだと考える。

2012年5月13日日曜日


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2012年5月12日土曜日


■人の自由意志と神の予定について

クリスチャン信仰において最も重要なポイントは、信仰と従順です。信仰とは神の意志、招き、言葉に対する私たち人の側の積極的な応答です。そして救いを受けることができたのは、私たちの行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるとあります(ローマ書、エペソ書)。神の前で何かの善行とか修行をして、ある一定の神の要求されるレベルに到達したから救いの認証を受けるわけではありません。人は誰も自分の行いによっては義とされ得ません。ただイエスを信じる時、救いは無代価で与えられます。それは誰も神のみ前で誇ることがないためです。

とこ� �がここに人の自由意志と神の予定に関してとても深刻な問題が生じるのです。

2012年5月10日木曜日


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2012年5月8日火曜日


作詞・作曲 拓真
編曲 Negative Dreamer

歌詞↓

*誰のため、何のため?
あなたのため? 自分のため
社会のため上司のため?
全てはお客様のため?*

バカ言うな誰もお前に 頭下げるためにやってんじゃねぇ!
自分の充実、金銭獲得 欲しいもん手に入れるため
所詮 自分 主体  したい事 やるための踏み台

お客様が神様と思ってる客なんざお断り

Did you think? コッチ側のこと
全部気にしろとは言わないけど
お前だって 言われてヤなことや
されて困る事があんだろ?

2012年5月7日月曜日


 

 人は、往々にして、「自分はなぜ生まれてきたのか?」などとか、「生まれてきた来た理由」、つまり、「自らの存在の理由や意味」を問うものであるが、しかしながら、私は、そういった、「生まれた理由」を永延に問い続けることは、意味のあることであるないとは思わない。


 

それはなぜかと言えば、そういった類の問いは、人が、一生かけて問うたとしても、容易には、解答が出るものではないと考えるからである。


 

2012年5月5日土曜日


大地震が発生しました。被害は甚大で多くの死傷者や不明者が出ています。また、原子力発電所からの放射能漏れが心配されています。まさかわが国で、このようなことが起ころうとは、このようなニュース映像を目にしようとは、ほとんどの人はこのようなことが現実なのだろうかと信じられない気持ちなのではないでしょうか。

キリスト教において、災害と神とはどのような関係にあるのでしょうか。キリスト教においては、この世にありとあらゆるすべてのものは神の創造によるものです。人にとって良いものも悪いものも直接の神の業によるものです。もちろん地震も台風も神が直接起こしているわけです。

新約聖書においては、黙示録に天国や地獄、恐ろしい戦争や災害についての記述があるのですが、普段口を酸っぱ くして「黙示録は暗号文なのだから、直接読んで理解できることはその通りの意味ではない」のだと主張しているにもかかわらず、キリスト教徒は「黙示録にはっきり書いてあるではないか、お前は文盲か」と批判されます。キリスト教徒が黙示録をそのままにしか理解できないというのであれば、黙示録に、神は災害と戦争をもたらすものだと書かれているのですから、この地震による災害は神がもたらしたものだと考えるべきでしょう。また、同書には神によって「ハルマゲドン」がもたらされるのであるとも書かれています。ですので、あらゆる戦争は神によるハルマゲドンの予形だと捉えることも可能です。

ソーシャルネットワークの自称クリスチャンである方々は「お祈りします」と発言しているようですが、あなた方ご自 身の信仰対象である神様が引き起こした災害によって被害を受けた方々に対して「お祈りします」というのはどういう意味なのでしょうか。誰に、何をお祈りするのでしょうか、その内容を具体的に教えていただきたいものです。

ソドムの例にもあるように、神は気に入らない人々を自然災害という表れを用いて殲滅するのです。「それは旧約だ」という言い訳は聞きません。暗号でないというのであれば、黙示録にはもっとあからさまに反対分子を残酷に殲滅する予告があります。

今回の地震による災害も、神の意思の表れであって、被害者は神に反するのもので、元々罰を受けるべき悪人だったのだ、といわねばなりません。

神に従順な僕であるというのであればそうするべきです。

はじめまして。いつもブログを拝見しております。
誤解のありませんように私が現在求道中の身であることを先に明かしておきます。
神は今は現実の事柄に直接関与してはおらず、罪人は死後に裁かれるのであって、罰という形で何かが起こったりするわけではないと理解しています。
だから、悪人どもが罰で死ぬということは起こりえないです。
ですから被災者の為に祈るのは矛盾はしてないと思うのですがいかがでしょうか。

みいさん、コメントありがとうございます。
また、いつもご覧くださっているとのこと、重ねてありがとうございます。

信仰について、いろいろな考え方や方法があって、どれが良いとか悪いとかいうことは無いだろうと思います。私の考えとあなたの考えが違うことも別に不思議ではありません。

ただ、せっかく疑問点を挙げておられますので、私個人の主観的な意見を述べさせていただくのであれば・・

仮に神がこの世のことに関知していないのであれば、誰も教会へ行く必要が無いことになってしまうでしょう。また、この世のことに関知しないのであれば、神は何を基準にして、死後に裁けばよいのでしょうか、今も昔も、神はこの世に君臨し、大いに関知するところであればこそ、死後を云々できるのです。

キリスト教徒にとってもっとも恐るべきものは「死」です。特に、神に従う決心をする前に災害で死んでしまうことは悪いことなのであって、そのように死ぬ者は、彼ら自身の悪の結果であると理解すべきだと言えるでしょう。

キリスト教徒は神がいてすべての現実世界を支配している、と考えています。「神は全宇宙の主宰者である」という考えです。庭の木の葉っぱが一枚枯れ落ちたことまで承知している、というわけです。

当然地震も台風も神の手によるものです。それでは、生き残った神の信者は被災者のために何を祈るのでしょうか、神の業は完璧で一分の隙も無いはずです。つまり、神の信者は神の業を褒め称えるべき、ということにならないでしょうか、自然災害は神の業なのであって、良い印なのだと、そう理解せねばならないのではないですか。

「ありがとうございます」こう祈るべきだということになるでしょう。違うでしょうか。

ずいぶん嫌なことを申し上げるようですが、言いたいことは現実を見るべきだということです。何にでも理屈というものがあります。キリスト教徒であるということはどういうことなのか、現実を知ってください。理屈をまげて美化してはいけないということです。宗教とはそういうものだという現実です。

またコメントお待ちしています。

クッキングホイルさん、とても丁寧な回答ありがとうございます。
確かに、私が最初に書いたような神だったら人間にとってはどうでもいいような存在になってしまいますね。
全ては神の意志によるということを失念しておりました。
「お祈り」に関してはよくわからなくなってしまいました。そもそも誰か他人の為に祈るということは意味の有ることなのでしょうか。祈りとは神への賛美と感謝だと思いますが、それは本人以外が代わりにできるようなものではないはずです。
現実を知れというのは仰るとおりです。まだまだ私にはキリスト教、キリスト教徒の理解が不足しているということを痛感いたしました。少しずつ、理解していきたいと思っています。
これからの記事も楽しみにしています。

みいさん、コメントありがとうございます!
あなたは、冷静で、感情的にならずに対話ができる方なのですね。感服しました。これからもコメントお寄せくださいね。

僕の祈りについての考えは、記事「祈りとは」

今回のような災害を、一般のキリスト教会では「神の試練」と表現していると思います。これについてはあなたのお考えにまかせます。僕も意見は言わないでおくことにします。

それでは。

はじめまして。地震と聖書で検索したらここにたどりつきました。(長文失礼します・・・)私の叔母さんがクリスチャンで、私に神様を信じてもらいたいそうなんですが(私は無宗教です)それで奥山実さんの「世の終わりが来る!」なんていう本を貸してもらい、読んでるうちに東北で地震が起きて、本に書いてあることが本当だったら嫌だな・・・と思って、このホームページに来ました。クッキングホイルさんの文を読んでいたら、なんだか心が楽になりました。ありがとうございます<(_ _)>叔母さんには三浦綾子さんの著書も貸してもらって、読んだ後は感動して洗礼してもらおうかなと思ったりもしましたが、やっぱりなんだか・・・って感じです。まさに迷える子羊というか(泣)誰かに聞いてもらいたかったので、コメントの場を設けてくださりありがとうございました(^^)/!

ラクダさん、コメントありがとうございます!

拙ブログが何かお役に立てたのでしょうか、とても光栄です。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

おば様から信仰を持つようにと進められているのですね。親族にそういう人がいるのはとても始末の悪いことでしょうね。お察しいたします。

奥山実さんという方は福音派という部類の新興教派の指導者だと思いますが、同じキリスト教の中でもとても急進派といいますか、極端で偏った思想を主張する系統の方だと思います。アメリカでは、中絶する医師を殺害するような系統です。よくご注意ください。

三浦綾子さんの著作に感動された、ということですが、僕の観察では、彼女も偏った思想の一人のキリスト教徒に過ぎない、としか思えません。作品からは詭弁と言い訳しか見えてこないと思います。

特定の宗教に偏らないことが、人間としてまず望ましいことだと思います。機会があれば宗教愛好家の目をよく見てみてください。こちらの目を見ずに話します。対話ではなくて、一方的な主張しかできないようになってしまっているからです。

またコメントくださいね。お待ちしています。

早速の回答、ありがとうございます(^o^)>>特定の宗教に偏らない と回答してくださってますが、私なんかその最たるものだと思います・・・なんてったって、父方のおばあちゃんが善○教の信者で、お母さんの実家が神社やってて、叔母さん家が教会やってるから宗教に対しては敏感なんです・・・(泣笑)母方のおばあちゃん家で叔母さん家の悪口行ってたり叔母さん家で母方の家の見下げた発言聞いてるから子供心に複雑です・・・(笑)ややこしくてすみませんm(__)m >>中絶する医師を殺害!?わかりました! 三浦綾子さんの思想は偏ってるんですか>゜)))彡あまり深く考えずに読んでいたのでわかりませんでした^_^;いろいろ教えてくださってありがとうございます。甘ちゃんなので発見ばかりです。

ラクダさん、コメントありがとうございます!

ご家族の宗教、とても複雑なんですね。恐れ入りました。しかし大変なことですね。うまくかわしつつ日々つつがなくすごしてください。

まあ、僕自身も偏っていないかというと怪しいもんじゃないかとは思うのですが、宗教信者が自分自身の宗教をテーマにして作り上げた小説で、偏っていない作品なんて皆無でしょう。宗教小説なんてお経や聖書で十分です(笑)。

またいつでもコメントくださいね。お待ちしています。

こんばんは。黙示録についてインターネットで検索していたところこちらのHPに辿りついて、この記事を読ませて頂きました。
私はプロテスタントなのですが、こちらの記事を読んでいて私の理解とは少し違うところがあったので、書き込みをしています。

まず、黙示録に書いてあること(特に4章以降)は現時点ではまだ起こっていない事柄です。なぜなら、これらのことは再臨の後に起こるとされているからです。今回の地震も物凄い大惨事ではありましたが、黙示録の世界ではそれ以上にえげつない惨事が起こるのだと思います。今回起きた地震や、今までに世界各地で起こった紛争、戦争、自然災害などは、聖書の中のマタイ24章(特に3〜14節)にあたります。

とはいえ、地に起こる様々な出来事に神様が関与していることは確かです。しかし今回の地震も含めて、再臨前に起こるこのような災害等々は神の怒りや裁きとは違います。神の怒りや裁きは全て 、再臨後に起こるのです。

2012年5月4日金曜日


場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会

早天祈祷会2006.11.23

聖書本文:ヨシュア記6:8-27

主題:神の徹底した裁きと救い

 

今日の本文はエリコ城の陥落の本文であります。主はヨルダン川を渡り、約束のイスラエルの地に辿りついてまず始めにエリコの城を攻める事を命じました。その為にすることは、まずエリコの城を攻める前に城の周りを毎日1回ずつ回ることを命じたのであります。そして7日目は城の周りを7回回り、その後にときの声をあげる事を神様は命じたのであります。ここにはどのような神様の御心があるのでしょうか?

 

まず、一つ目に神様は私達が主の御心と導きに従って神様の働きをすることを願っておられます。常識的に考えて、エリコの城を攻めるのにこのような働きは常識外れであります。

ヨシュア6:9 武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。

というように、契約の箱を担いだ祭司が真ん中を進み、その前と後ろを武装兵が守るという陣を敷いていました。しかし、契約の箱を担いだ祭司が戦いに役に立つことは考えられません。なぜ、神様はこのような配置で7日間もエリコ城を回ることを命じたのでしょうか?

まず、一つ目に、霊的な戦いは神様を中心にして戦うという事をイスラエルの兵に教えるためでもあります。エリコの戦いは、イスラエルの民が約束の地において初めての戦いでもあります。その中で、神様はイスラエルの民が自分達の力を頼りに戦うのではなく、何よりも神様を中心にして戦う事を心に留める必要がありました。それ故に、神様は神の箱を中心にして軍隊を布陣することで、そして7日間も回らせることで、この戦いは神様中心の戦いであることを強烈に認識させたものであります。私達の働きもそうです。全てのクリスチャンの働きは霊的な戦いの中にある事を心に留める必要があります。その中で私達は何よりも霊的な戦いの主権は神様が握っておられ、戦いを左右するのは神様であることを心に留めましょう。人間的な力に頼ってはならないのであります。

2012年5月2日水曜日


秋になると、かならず読みたくなる本があります。
それは、息子に秋に読んでもらったから、という理由が大きいのだけど。

なんとなく、気候もいいし、食べ物も美味しいわで
秋は旅に出たくなります。

いろいろな新しいものに出会いたくなります。

昨日の日経新聞の朝刊の中面の全面広告は旭化成でした。
そのコピーがよかったです。

昨日まで世界になかったものを。

企業の開発組があらゆるものを作り上げる力や内容に
ついてのコメントは差し控えることにして・・・。

でもこのコピー。 ぐっと来るものがありました。

自分の世界だけで見ると
旅に出れば、新しいものと出会います。
旅先で出会った友人は、昨日まで自分の世界になかったもの。
例えをあげたらきりがないほどに、それはあるわけで。

旅は、どこか違う土地に行かなくても
新学期も、新しい学校も、 どれも小さな旅だと思うのです。

2学期になって、周りの成長や自分の成長に戸惑っている子がいたら
この「きりぎりすくん」は、おすすめです。

2012年5月1日火曜日


死を直視する人生とは・・・?

  「人間、死ぬ時は死ぬもの。いたずらに恐れたところで、どうにもならない。死ぬことなど、くよくよ考えないで、生命保険でもかけて、後は、自分と他人(ひと)のために、今を精一杯生きることだ」と、多くの人々は考えるでしょう。

  また、ある人々は、「人間は必ず死ぬ。しかも、それがいつ来るかを知らない。この危機感が、重要であり、死の現実を避けないで、それを直視してこそ、生きている今を、大切に生きていけるのだ」と言われます。

  死と言う避けがたく、悲しい現実を、はかなむのでなく、むしろ、それをバネにして、強く生きていこうとするこの生き方は、確かに美しく立派です。しかし、よく見るとこの生き方の真相は、「死」を直視して、問題解決に積極的に取り組むと言うよりも、「死」を『所詮、どうすることもできない』、解決不可能な問題と決め込んでいる「対処療法的」な消極的態度が、その前提にあります。

  理論上は、美しく聞こえるこの考え方も、現実には、本当に死を「直視して」生きていると言えるか、疑わしい面があります。そもそも、一体、誰が、「人は、結局死ぬんだ」、と言う現実を、毎日、来る日も来る日も、直に見つめつつ、そこに希望と力、自由と喜びを発見できるでしょうか。フランスの哲人ラ・ロシュフコーは、「人間は、太陽と死は正視できない」と言いました。「私は、死を避けていない」と言う人でさえ、ほとんどの場合、現実には、「人は必ず死ぬ」と言う現実を、見つめるどころか、それを「忘れて」生きているからこそ、笑ったり、喜んだりしながら希望を持って生きていけるのではないでしょうか。

  何故なら、死の現実、死の持つ力は、考え方、見方次第で、簡単に、人生の「敵」から「味方」に、「のろい」から「祝福」に変わってしまうほど、単純で甘いものではないからです。

  アインシュタインは、「死を、私は、とうとう返済することのできなかった、昔の借金のように感じます」と評しました。また、死を前にして、たじろぐレオナルド・ダビンチと弟子達との会話がこのように記されています。「先生には、数々の素晴らしい業績や芸術作品があるではないですか」「今、死んでいく自分にとって、そんなものが何になる」「それでも、先生が教えられたことは、私たちの心の中にくっきりと焼き付いて生き続けます」「そういうお前たちも死んでいくのだ」。