2012年6月4日月曜日



   日本フリーメソジスト・大阪城東基督教会

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」(聖書)

大阪の観光名所といえば、一度は足を運ばれる大阪城。
  そのお城に最も近い教会が、私たちの大阪城東基督教会です。

教会がある、ここ城東区鴫野の町は、OBP(大阪ビジネスパーク)の東側、
  マンションが建ち並ぶ住宅街です。

その町の協力のもと、教会から生み出された「全愛幼稚園」は、
  50年の歩みを数え、それゆえキリスト教保育を経験し、
  卒園された方々は、とりわけ近所には大勢おられます。

通りに掲げられた教会の看板には、
  「温もりある神の愛を受けて、湧き上がる希望に生きる教会」と紹介され、
   平日は地域の幼稚園として園児の声が聞こ え、
   日曜日には朝から、喜びの讃美の声が響いています。

聖日礼拝(日曜日)は、午前10時30分から始まり、
  礼拝出席者は神さまの愛の豊かさに感激し、
  頑固な心が不思議と変えられていく経験をします。

いつまでも残るもの、信じ合える事、望みを持つ事、愛を得て与える事が、
  現実のものとして、あなたの人生にもやってくるのです。嬉しいことです。

最寄の駅は、JR環状線、京橋駅(南口より)下車、徒歩10分です。
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  536ー0014 大阪市城東区鴫野西3-6-2 牧師 篠原利治 (06)6961-1619

皆さん、こんにちは。お元気でしょうか。

毎日、東日本大震災を覚え、深く祈りつつ、
過ごしておられる事と思います。

明日の礼拝においても、FM東部教区・教会の報告を交え、
祈りの時を持ちたいと思います。

明日は、3月第三聖日礼拝式。いのちの水、
3月生まれ・誕生祝福の時があります。

礼拝後は交わりと、最後に掃除をいたします。
ご協力ください。

メッセージは、マタイ4章より。
「試誘の時の助け」と題して、準備しています。

贖ないとは、踏み直しの意味あり。
明日も、この痛んだ日本を愛し、癒し主が働いて
おられる事を覚え、主を礼拝したいと思います。

明日も、希望を持って集まり、祈りましょう。

2012年6月2日土曜日


9月24日(水) 

貧しくもせず、金持ちにもせず、
わたしたのために定められたパンでわたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り
主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き
わたしの神の御名を汚しかねません。
(箴言30・8-9、新共同訳聖書)

主に忠実であろうとするこの人の願いは
とても謙虚・堅実・健全。
バランスの良い食事・運動・休息で
心身の健康を保って天寿を全うしようとする人のよう。

それに比べると、イエスの招きは過激だ。
まるで心身を鍛え抜いて
オリンピックの金メダルを目指すアスリートの監督のよう。

2012年6月1日金曜日


なぜ福音にしたがって生きるかという理由となぜ神権があるかという理由を理解することによって,あらゆることに神の目的を見いだすことができます。

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神権を持つ兄弟たちとともに,イエス・キリストの福音の不思議とすばらしさを祝うこの機会を喜びとしています。皆さんの信仰,立派な働き,変わることない義を称賛します。

わたしたちは皆,聖なる神権の権能と力を託された人から神の神権に聖任されているという,一つのきずなで結ばれています。これは大いなる祝福であり,神聖な責任です。

なぜという問いの持つ力

わたしはこの数日,神権者として教会で受けた二つの重要な召しについて考えてきました。

一つ目は執事のときに受けた召しです。ドイツのフランクフルトで,わたしは家族とともにある小さな支部に出席していました。支部にはすばらしい人がたくさんいました。支部会長のランツシュルツ兄弟がその一人でした。いつも少しまじめで,固い感じがして,たいてい黒っぽいスーツを着ている人でしたが,わたしは彼を心から尊敬していました。少年時代には,支部会長がどれほど古くさいか友達と冗談を言ったものでした。

今このことを考えると笑ってしまいます。今日教会の青少年はわたしを同じように見ているかもしれないからです。

ある日曜日,ランツシュルツ会長はわたしに話があると言いました。とっさに,「何か悪いことをしただろうか」と考えました。支部会長と執事の話し合いの引き金となったかもしれない自分の振る舞いを急いであれこれ考えました。

集会所に支部会長室がなかったので,ランツシュルツ会長は小さな教室にわたしを招き入れました。そして,執事定員会会長として奉仕する召しをわたしに告げたのです。

支部会長は「これは大切な責任ですよ」と言ってから,時間を取って,理由を説明しました。主と支部会長がわたしに何を期待しておられるか,またわたしがどのように助けを受けられるかを説明してくれました。

支部会長が何を言ったかはほとんど忘れてしまいましたが,自分がどう感じたかははっきりと覚えています。彼が話している間,聖なる神の御霊を感じました。この教会が救い主の教会であり,支部会長から受けた召しが聖霊によって霊感を受けたものであることを感じました。わたしはちょっとだけ大人になったような気持ちでその小さな教室を後にしたことを覚えています。

それから60年近くがたちますが,そのとき感じた信頼と愛は今も大切にしています。