マザー・テレサの言葉
こちらでは、マザーテレサによって残された言葉をとおして、その愛と祈りの生涯を見て行くこととします。
1
この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。
マザー・テレサ語る より
マザーテレサは、貧しい人々、病んだ人々を生涯にわたって愛し、助け続けました。
彼女のつくった「神の愛の宣教者会」は、「孤児の家」「ハンセン病患者の家」「死を待つ人の家」「結核患者、精神病者の家」等を運営し、常に貧しい人々の中のいちばん貧しい人々、病んだ人々、社会の人々から必要とされていないと感じるような立場におかれた人々を、今現在も愛し、助け続けています。
2
マザーは信仰の人でした。カトリックの修道女として生きた人でした。
すべての人は良心をもっていて
みんなそれに
従わなくてはならないのです
その愛は、宗教や宗派にかかわらず、世界中のすべての人に対して、注がれていたのです。マザーに対して当初偏見を持って見ていた他宗教、他宗派の人々も、マザーのすべての人々に対する献身する姿に心を打たれる事になりました。やがてあらゆる宗教、宗派の人々がマザーを理解して行きました。
もしあなたが謙虚であるなら
何ごともあなたの心を汚さないでしょう
もしあなたが聖人であるなら
神に感謝しなさい
もしあなたが罪人であるなら
そのままでいてはいけません
マザーは、信仰による真実に生きることを自ら実践し、人々にもその生活の場での、真実の実践を勧めました。
もし、経験がないならば、尋ねなさい
尋ねることは恥ずかしいことではありません
けれど、知らないことを、
知っているようなふりをするのはやめなさい
マザー・テレサ 日々のことば より
3
マザーの活動はインドのカルカッタで始まりましたが、やがて世界の多くの国々へと広がることになったのです。
考える時間を持ちなさい
祈る時間を持ちなさい
笑う時間を持ちなさい
それは力の源
それは地球でもっとも偉大な力
それは魂の音楽
遊ぶ時間を持ちなさい
愛し、愛される時間を持ちなさい
与える時間を持ちなさい
それは永遠につづく若さの秘密
それは神が与えてくれた特権
自分勝手になるには、一日は短すぎる
読書する時間を持ちなさい
親しくなるための時間を持ちなさい
働く時間を持ちなさい
それは知識のわき出る泉
それは幸福へつづく道
それは成功の価値
施しをする時間を持ちなさい
それは天国へと導く鍵
[カルカッタの「孤児の家」の壁にある看板より]
子どもたちを見るとき、マザーの顔は優しさと慈しみにみちていました。
すべての子どもたちが、この世に望まれて生まれてくる、とマザーは言っています。それは一人の例外もなくすべての子どもたちを意味していました。
マザーは、子どもたちは祈ることを学ぶ必要があると語りました。
4
私たちは、祈ることで誘惑に打ち勝つ強さを得るでしょう。
なぜなら、少しでも神に近づいた人間は、まわりにいる人たちに楽しさと愛を広めるからです。
この言葉は、なによりもマザー自身の体験をとおしての、祈りの果実を示しています。
それはとてもシンプルなものなのです。
私たちすべてが必要としているのは、祈ること、そして、他の人をもっと愛し始めることなのです。
マザーは、祈る事と人を愛する事が、すべての人に必要なものと言っています。
そして、祈るときに必要なものとして、沈黙をあげています。
だれにでも、沈黙し、黙想する時間が必要です。私はいつも沈黙のなかで祈りをはじめます。
神は静寂の友です−私たちは神の声に耳をかたむける必要があります。
祈りは魂を満たしてくれます。そして、人間は、祈ることで神に近づくことができるのです。
祈ることで、あなたは清らかで純粋な心を与えられるのです。
マザー・テレサ語る より
5
マザーは、心の静けさ(真の内面的な静寂)を得るために、次のようなことを上げています。
他人の過ちや、罪深いすべてのものに目を閉じ、神の美徳をさがす(目の沈黙)
ゴシップや告げ口、無慈悲な言葉等の声に耳をふさぎ、神の声や貧しい人の叫びに耳を傾ける(耳の沈黙)
暗さや動揺、苦しみを引き起こすすべての言葉をつつしみ、私たちを啓発し、鼓舞し、平安や希望や喜びをもたらす神の真理の言葉、イエスの言葉を口にする(舌の沈黙)
うそや混乱、破壊的な考え、軽率な評価、他人への誤った疑い、復讐心、さまざまな欲望などに精神を閉ざし、祈りと黙想において神の真理と知識に精神を開く(精神の沈黙)
すべての自分本位の考え、憎しみ、うらみ、ねたみ、欲ばりを避け、私たちの心、魂、精神、力において神を愛し、神が愛するように人を愛する(心の沈黙)
マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りより
マザーは、心の静けさを保つことによって、神の声を聞く特権が与えられると言っています。
6
マザー(この呼び名は、修道女〈シスター〉の母、女性指導者の意ですが、彼女の場合には、その固有名詞として呼ばれています)は、世の人々に対して、彼女と同じことをしてほしいとは言いませんでした。ただ、それぞれの生活する所で、彼女と同じように祈る人、他の人を愛する人になってほしいと願っていたのです。
彼女は、祈ることはだれでも、いつでも、どこにいても出来ると言っています。
祈ることをたびたび勧めています。それを説く相手は、宗教、宗派を超えていました。マザー自身は、彼女の信仰する父(神)とイエス・キリストさらに聖母マリアに祈ることを実践した人でした。
すべての宗教は、永遠なるもの、つまりもうひとつの命を信じています。
この地上の人生は終わりではありません。終わりだと信じている人たちは、死を恐れます。
もしも、死は神の家に帰ることだと、正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです。
マザー・テレサ 日々のことば より
マザーは永遠なる命について語っています。死は終わりではない、正しい信仰を知って生きる人は死を恐れることはないと言っています。すべての人はやがてこの世の死を迎える事により、神(宗教、宗派を超えた父(創造主))の家(霊魂の世界)へ帰ると語っています。彼女の信仰は、祈ることによって成し遂げられました。
私の秘密をおしえましょうか。私は祈ります。キリストに祈るということは、キリストを愛することと同じなのです。
救われるためにどうしたらよいのでしょうと尋ねる人があったら、私の答えは「神様を愛することです。そして、何よりもまず祈ること」
キリストを知らない人が、真にキリストを知るようになることをマザーは願っていましたが、それに関連して、彼女はこの世のすべてのキリスト信者にとって大切な言葉を残しています。
キリスト信者と世間に認められていても実際には実行していない人は、キリストを知らない人がキリストに近づこうとする事をさまたげてしまうと言っています。
生涯を通して実践していたマザーの大切な言葉です。
ガンジーは、キリストのことを知った時、興味をいだきました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉だけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
マザー・テレサ愛と祈りのことば より
7
マザーは真の信仰(祈り)であれば、その人の祈りは、きっと受け入れられると話しました。
信仰が深まれば、いかなる宗教、階層、肌の色、国籍、貧富の差も存在しないとわかります。
マザー・テレサより
マザーの信仰は、あらゆる宗教、宗派はもちろんあらゆる人種、社会的身分の人々を含むものでした。
すべての人々が必要としているのは、他の人々をもっと愛し始めることと言っています。
神様だけが、私たちの真の必要をご存知です。
愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です。
マザー・テレサ愛と祈りのことば より
どんな小さいことであっても、大いなる愛を込めておこなうことは、人に喜びを与えます。そして人の心に平和をもたらします。
何をするかが問題ではなく、どれほどの愛をそこへ注ぎ込むことができるか、、、 それが重要なのです。
なぜそれが私の名前の起源に重要です。マザー・テレサの「愛」という仕事 より
8
マザーの愛はこの世に生をうけた人すべてにおよびました。それは、これから生まれてくる子のすべてにもおよびました。どのような環境に、どのような事情で生まれても、一人一人が大切な命、神にも世の中にも望まれて生まれてくると確信をもっていました。
あなたは、この世にのぞまれて生まれてきた大切な人
マザーの愛はそのマザー自身の信仰に、基づいていました。
ごうまんで、ぶっきらぼうで、
利己的になるのは、いともたやすいことです。
でも私たちは、
もっとすばらしいことのために、
つくられているのです。
マザー・テレサ愛のことば より
9
魂に恥じない行為をする、
それが喜びになります。
マザーは行動の人でした。沈黙と祈りの人でした。その彼女によって残された貴重な言葉は今も輝き続けています。
10
カルカッタでの、ある晩のことです。マザーたちは路上で病人を見つけました。 その中の一人の女性が特に重症だったのですが、彼女の体は、虫や蛆に覆われていたのです。
私は愛情のすべてを注ぎ、できる限りの世話をしました。
そしてベッドに寝かせてあげた時、彼女は私の手を取り、美しく微笑んだのです。
こんなに美しい笑顔を、私はそれまでに見たことがありませんでした。
「ありがとうございました」
彼女はそうひとこと言って、静かに息を引き取ったのです。
そんな彼女の死を目の当たりにして、私は自分に問いかけてみました。
「私が彼女だったら、どうだろう?」
私は正直に答えを出してみました。
「人の気をひこうとして、『痛い』とか『お腹が空いた』とか『死にそうだ』とか言ってしまうかもしれない、、、』
彼女は私に愛をくれました。彼女は、私が彼女にしてあげた何倍ものものを、与えてくれたのです。
私たちのところにいるのは、こういう人々なのです。
この貧しくも美しい人々は、何も私の所にだけいるのではありません。誰の側にも必ずいるはずです。
孤独な人はどこにでもいます。あなたはそのことに気づいているでしょうか?
マザー・テレサの「愛」という仕事 より
マザーは真実な人でした。その信仰に基づき、貧しい人々の中のいちばん貧しい人々を愛し続けた生涯でした。
彼女の大きな仕事の一つであった[死を待つ人の家]は、人間のこの世の人生の、最後(死)の瞬間を、尊厳を持って迎えてほしい(迎えるべきである)、という彼女の真の愛(信仰)によって始められ、今も後継者たちにより実践されているのです。
それは、現代(科学万能)社会において、すべての人々にとって失われつつある大切なもの(死の尊厳、真の愛《信仰》)を、示しています。
彼女には多くの寄付(お金や物)や賞金(ノーベル賞・1979年《自分が受けるのではなく、彼女の言う、貧しく美しい人々が受け取るのなら、と受賞したのです》等)が入りましたが、それらのすべてを、彼女の愛する貧しい人々のために使っていました。
彼女は、生涯を通じて、日常的に自分自身のものと呼べるものは、聖書等の他には、洗濯用の一つのバケツと数枚の身に着けるサリーと素足にはくサンダル等以外何一つ持っていなかったのです。貧しい人たちの中で、同じように貧しく生き抜いた人でした。(彼女に従ったシスターやブラザーたちも、同様に、家族も財産も地位も名誉も、すべてを捨てて、無一物でその生涯を捧げているのです。)
11
死は悲しい事ではありません。
私たちが悲しむべき唯一のことは、
自分が聖なる者になっていないという事実だけです。
マザー・テレサ愛と祈りのことば より
アグネス・ゴンジャ・ボワジェ(後のマザー・テレサ)は、1910年8月26日、旧ユーゴスラビアのスコピエに生まれました。18歳で自らの希望でロレット修道院に入りました。後に彼女は、自ら望んだ事で希望をかなえ、喜びのうちに入ったのだけれど、優しい家族との別れは悲しいものでもあったと言っています。
彼女は、インドの修道院で教師となり、校長もつとめました。彼女は子供たちに教える仕事は楽しくて、好きな仕事であったと語っています。
彼女は、彼女の言う神の招き(神の側からの働きかけによるマザーの真の使命と信仰の自覚)に従って、カルカッタにおいて、貧しい人々の中のいちばん貧しい人々のために活動を始めることになりました(38歳)。
その時、修道院の優しい仲間や子供たちと別れることは、家族との別れの時よりも悲しかったと語っています。
マザーは人(特に、貧しい人々)を真に愛することを、行動(生活)で実践しました。その愛は彼女の信仰から生まれました。
マザーは、イエス・キリストの「この小さい者たちにしてくれたのは、私にしてくれたのである」という言葉を大切にしていました。そして、飢えた人、病気の人、貧しい人の中に常にイエスを見ていたのです。
その仕事については、社会事業ではないと言っています。マザーは社会事業(福祉)について、それはすばらしいことで、一つの目的(数の要請)のために必要なことです、と言っています。
しかし、自分のしている事は信仰(真の愛)に基づいて、今この時に、いちばん助ける必要のある一人一人を、助けている(愛している)のにすぎない、ということを言っているのです。
マザーは、政治的発言をすることには慎重でした。しかし、自分が必要と認めたなら、相手がどのような政治家であっても、その意見をはっきりと伝えました。
彼女は、自分は政治にはかかわりません、と言っていました。自分の活動が政治的に利用される事を避けていました。それは、政治にかかわる事により、世界のすべての人を愛する事が困難になるから、一つの理由を述べています。
12
今、この瞬間幸せでいましょう。
それで十分です。
その瞬間、瞬間が、私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです。
今、幸せであるようにつとめましょう。
他の人をーあなたより貧しい人々も含めてー愛しているのだということを、行動によって示すことで、彼らを幸せにすることができるのです。
たくさんのものが必要なわけではありません。
ただ、微笑みかけてあげるだけでいいのです。
だれもが微笑むようになれば、世界はもっと素晴らしい場所になるでしょう。
ですから、笑って、元気を出して、喜びなさい。
神はあなたを愛しているのですから。
マザー・テレサ語る より
インドのカルカッタにおいて、マザーは、無一物の一人の人間としてその行動を起こしました。彼女は、聖なる者として生きることに、その全生涯を捧げたのです。
その時の彼女の立場(社会的、組織的、環境的)によるありとあらゆる困難を一つ一つ克服して行きました。それを支えたのは彼女の真の信仰(真の愛)でした。
13
彼女と共に生涯を捧げた今はなき、シスター・アグネスという一人の彼女の教え子(元生徒)が加わり、さらに数名の、彼女を敬愛する元の教え子たちが加わることになりました。
彼女は、彼女とその仲間たちを[神の愛の宣教者]と名づけました。
神よ、今日は孤独の苦しみがどれだけひどかったことでしょう。いつまで私の心が、この苦しみに耐え続けられるかわかりません。
涙はとめどなく流れ落ちました。すべての人が私の弱さを見るでしょう。
神よ、今こそ自分と、そして誘惑者とたたかう勇気をお与えください。
私の自由な選択と確信によって行った犠牲から、私を退かせないでください。
あなたの愛のために、私は「神の愛の宣教者」として生き、そして死にたいのです。
マザーの初期の日記より
愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言 より
ここには、マザーが自身の強い決意のもと、困難な仕事を始めた頃の、一人の生身の人間マザー・テレサとしての心情が、鮮やかに表現されています。
数々のこのような困難な時を経て(筆舌に尽くしがたい苦難と涙と共に)、あのマザー・テレサの生涯があったのです。
こちらの日記の言葉は、彼女の神への祈りとなっているのです。
そして、彼女は、その祈りの通りの生涯を生き抜いたのです。
14
私の白いサリーは、貧しい人のなかで私も貧しい人の一人だというしるし、私の身なりも生活も、病に倒れた人や、骨ばかりの子供とひとつになるための糧。
そして、不親切で冷淡でありながら奇跡をおこなうよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい。
マザーは自分の仕事の本質について、次のような言葉で表現しています。
もしかりに〈孤児の家〉がなかったら、子供たちはみんな路上にほうっておかれるのです。
それをそのままにしておくか、それとも私にできることをするか、私にはどちらかを選ぶしかないし、
だから、私は自分にできるわずかなことを選んだだけなのです。
彼女は、貧しい人びとに対してもほうっておくことはできなかったのです。
もし、貧しい人びとが飢え死にするとしたら、
それは神がその人たちを愛していないからではなく、
なぜ悪いことが起こると、それらの時代に持って信仰しないあなたが、そして私が、その人たちにパンを、服を、そして愛を、思いやりをあたえなかったからなのです。
マザーは、人を世話するときのありかたをこう言っています。
親切で慈しみ深くありなさい
あなたに会った人がだれでも
前よりももっと気持ちよく
明るくなって帰るようにしなさい
親切があなたの表情に
まなざしに、ほほえみに
温かく声をかける言葉にあらわれるように
子どもにも貧しい人にも
苦しんでいる孤独な人すべてに
いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい
世話するだけでなく
あなたの心をあたえなさい
マザー・テレサ あふれる愛より
15
マザーは、人間の死について次のように語っています。死はこの世から自分の家に帰る事と言っています。この言葉はマザーが人間のいのち(霊魂)について、はっきりとその行方を知っていた事を示しています。
死は自分の家に帰ることですが、人は、何が起こるかを恐れて死にたくないものです。
そこには良心の問題もあります。
"もっとよくやるべきだったのに"と。
私たちは生きたように死ぬものです。
死とは人生の続きであり、
また、人生を完成させるだけでなく、体をお返しするに過ぎないのです。
しかし、心と魂はずっと永遠に生き続けます。
死なないのです。
マザー・テレサ 日々のことば より
ここには、マザーの信仰にもとづいた真理が示されています。体(肉体)を返しても心と魂(霊魂)は永遠に生き続けると言っています。そのまま本人(霊魂)は人生の続きを生き続けると言っているのです。もちろんマザー自身は、その真理は宗教や宗派の違いによって左右されるようなものでは無い事をも知っていたのです。
16
マザーは、いつでも祈りの人でした。彼女は、こう言っているのです。
日々の、その祈りがなければ、一日たりとも、いや一時間たりともこの献身の生活は続けられません
マザーは、人々にも神に祈ることを勧めています。
祈ることを愛しなさい。日中たびたび祈りの必要を感じるようにしなさい。
祈りは心を広くして、神ご自身という贈り物を受け入れることができるようにします。
彼女は、神について、そして宣教者の言葉について、次のように言っています。
神は静けさの友である。、、、生きて、愛する神である。
宣教者の言葉は、内面からわくのでなければ役にたたず、キリストの光を与えないような言葉は、闇を増すばかりである。
彼女は、喜びについて、次のような言葉を残しているのです。
喜びは祈りー喜びは力ー喜びは愛ー喜びは人の心を受けとめる愛の網。
神は喜んで与える人を愛される。喜びを持って与える人は、だれよりも多く与える。
神にも人々にも、感謝を表すいちばんいい仕方は、すべてを喜びをもって受け取ること。
喜びの心は、愛に燃える心の当然の実りである。キリスト復活の喜びを忘れてしまうほどに、なにかの悲しみで心を満たされてしまわないようにしなさい。
マザーは、ある日、彼女と共に働くシスターの一人が、人々の悲惨な状況のために、悲しい顔をしてうつむいて歩いているのを見て、あなたの愛を、喜びの心をもって与えるようにと諭したと言っています。彼女は真の愛のあるところには喜びの心があると言っています。
ほほ笑みを忘れ、悲しそうなのは、彼女たちの使命にとっては最大のマイナスになります。
17
マザーは、今すぐに幸せでいることが出来る、それには今、神といっしょにいること、と言っています。それは、マザーの生きた生涯そのものを表しているとも言えるでしょう。
神と今すぐいっしょに天国にいることができます。
今神といっしょに幸せでいること、
神が愛したように愛し、
神が手助けなさるように手助けし、
神が与えるように与え、
神が仕えるように仕え、
神が救うように救い、
四六時中いっしょにいて、
苦しむ人の姿をとっておられる神に手を触れることです。
マザー・テレサ すばらしいことを神さまのために より
マザーは、喜びを持つということについて、その大切さと困難さを語っています。
喜びを持つということは、性格などの簡単な問題ではありません。喜びを保つことは、いつも難しいものです。だからこそ喜びは、私たちが身につくように努めて、心の中ではぐくんでいかなければならないものなのです。
もし、あなたが困難な仕事をかかえたときに、喜びや大きなほほえみでそれを受けたなら、多くのほかの事柄と同じように、よい実りをもたらすでしょう。
マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りより
18
マザーは、自分の信仰を次のようにも表現しています。
私は、自分が神の手のなかにある鉛筆のように感じます。
主よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください
イエスを愛した女 マザー・テレサ 聖女の真実 より
こちらに、キリスト者としてのマザーの愛した祈り(アッシジの聖フランシスコの祈り)を紹介します。
主よ、あなたの平和をもたらす道具として、私をお使いください。
憎しみのあるところには、愛を
不当な扱いのあるところには、一致を
疑惑のあるところには、信仰を
誤っているところには、真理を
絶望のあるところには、希望を
暗闇には、光を
悲しみのあるところには、喜びを
持って行くことができますように
慰められることを求めるよりは、慰めることを
理解されることよりは、理解することを
愛されるよりは、愛することを
求める心をお与えください
私たちは自分を忘れ去ることによって、自分を見いだし
許すことによって、許され
死ぬことによって、永遠の命をいただくのですから
アーメン
マザー・テレサへの旅路 より
マザーは、ウィトとユーモアに富んだ明るい人でした。そして、彼女とともに働くシスターたちに、常に微笑みを忘れないように、と話しました。
笑うことなど出来ないような、悲惨な状況であればあるほど、微笑みが必要であると言いました。それが実践出来ているのは、彼女たちに信仰による喜びの心と真の愛が、常にともなっているからなのです。
マザー自身でさえも、仲間のシスターに対して微笑みを向けることが難しい時があることを、認めていました。マザーも人間として様々な感情があっても、何の不思議もありません。そんな時には、マザーは「そのような時、わたしは祈ります」と言っていました。
19
介護を受ける重病の人や、看取られる死に逝く人々は、明るさと楽しさと喜びの心をもった真の愛(あなたを必要とし、あなたの平安を、心から願っていますという強い思い)を捧げられることにより、その魂の真の安らぎを得るのでしょう。
神の愛の宣教者会の精神は、完全に神にしたがうこと、他人を信じ愛すること、そして、だれに対しても陽気でいることです。
喜びとともに苦難をも受け止めなければなりません。貧しい人生を明るく信じて生きなければなりません。
そして、もっとも貧しい人のなかにいるイエスの世話を陽気にしなければなりません。
神は陽気に与える者を愛するのです。微笑みながら与えられたものこそ最高の贈り物なのです。
もし、あなたが神に対してつねに「はい」と答える心づもりがあるなら、どんなことがあっても微笑んでいるようにしなさい。そうすれば神の恵みが受けられ、傷つくまで与えつづけることができるでしょう。
マザー・テレサ語る より
マザーと彼女の仲間(シスター)たちについて、どのようなレポートも、常にとても明るく喜びに満ちた人々であると表現しています。
だからこそ、悲惨な状態にあって、苦しむ人々を、真に励まし続け、助け続けることができ、また安らぎのうちに見取ることも出来るのでしょう。
20
私は道具にすぎません。神のてのひらのなかにある小さな鉛筆のようなものです。
私たちのような弱くて不完全な道具を使うことで、神はいまでも謙遜を示しておいでです。
貧しい人のなかのいちばん貧しい人々、人から敬遠されるような病の人々、人から見放されていると感じるような立場に置かれた弱い人々と共にいて、その苦しみや痛みを共に受けていた彼女が、苦しみや悲しみがどれほどあろうと、一度も後悔したり不幸だと思ったことはない、わたしは幸福であると言い切っているのです。
誰もわたしから幸福を奪う事はできませんよ。
後悔したり不幸だと思ったりしたことは、これまで一度もありません。
マザーの心、言葉、行動をこの世だけの物質的価値判断(物差し)で測ろうとしても、不可能です。
私たちの42%が恐れていないと、公共の場でこれを行うマザーの偉大さはその魂による価値判断(物差し)によってその真価を理解する事が必要です。
彼女は、彼女たちの仕事のもつ意味の本質について、またシスターたちについて、こう言っています。
私たちは、栄光やお金のために仕事をしているのではありません。
シスターたちは貧しい人々に一生を捧げています。神聖な愛です。私たちは、神のために働いています。
自分を神に捧げるとき、そこには愛が存在します。
彼女たちは、持っているものをすべて差し出し、自分にできる最大の犠牲を捧げます。社会的な地位も、家も両親も、将来もすべて、もっとも貧しい人々をとおして神に捧げます。
マザー・テレサ 愛の軌跡より
21
次の祈りはマザー自身の、輝きつづけたその生涯を示しています。
親愛なる主よ、私がどこに行こうと、あなたの香気を放つことができますように、お助けください。
私の魂を、あなたの霊といのちであふれさせてください。
私の人生のすべてが、ただあなたの光の輝きだけとなりますように、私の全存在に染み込み、捕らえ尽くしてください。
私を通して輝き、また、私の中においでください。私の出会うすべての魂が、私の魂においてあなたのみ姿を感じられますように。
主よ、人々に目を向けさせ、もはや私ではなく、あなただけを見させますように。
説教せずにあなたを宣教させてください。言葉ではなく、私の生き方によって、私の行いが、人々に共感をもたらすことによって、私の心があなたに抱いている愛の明らかな充満によって、あなたを説くことができますように。
アーメン
マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りより
22
マザーは、常に真の愛を神に捧げ、貧しい人々、病んだ人々、見捨てられた人々、しいたげられた人々に捧げつづけました。マザーは、共に働く神の愛の宣教者たちをやさしく見守り、励ましつづけました。
《それでも》
人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。
それでも彼らを愛しなさい。
もし、いいことをすれば、人々は自分勝手だとか、何か隠された動機があるはずだ、と非難します。
それでもいい行いをしなさい。
もし、あなたが成功すれば、不実な友と、ほんとうの敵を得てしまうことでしょう。
それでも成功しなさい。
あなたがした、いい行いは、明日には忘れられます。
それでもいい行いをしなさい。
誠実さと親しみやすさは、あなたを容易に傷つけます。
それでも誠実で親しみやすくありなさい。
あなたが歳月を費やして建てた(完成した)物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。
それでも建て(完成し)なさい。
ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、彼らに襲われてしまうかもしれません。
それでも彼らを助けなさい。
持っている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも一番いいものを分け与えなさい。
[カルカッタの〈孤児の家〉の壁に書かれた言葉より]
マザーは、その一生を、その信仰をとおして、貧しい人々に捧げつくしました。同じく現在世界中にあって、彼女に続く活動をしている何千というシスターやブラザーも、その一生を捧げ続けています。
23
清貧の精神を保持することは、きわめて重要です。
人がその一生を捧げるということは、その真の命そのもの(魂)を捧げることを意味します。マザーがその死の瞬間まで続けたという事実が、その信仰の真実を物語っています。
己を自覚すれば、人は謙虚になります。
神の言葉を、そのとおりに受け取り、なによりも天国を求めること。
この世での私たちの損失は、天国での獲得になるのです。
マザーは、信仰の人でした。信仰者として何よりも大切なことは、天国を求めることと言っています。
そして、彼女と仲間たちの行動を支えているものとして、喜びを上げています。
私たち全員を進ませているのは、与えること、つまり人々の生活に愛をもたらすことから得られる喜びなのです。
マザーは、彼女の、ある支持者が彼女のために作ったカードを、名刺のように、会う人々に渡しました。その内容は、日頃の彼女の言葉と実践に基づいたものでした。そこには、次のように印刷されていました。
沈黙の果実は祈り
祈りの果実は信仰
信仰の果実は愛
愛の果実は奉仕
奉仕の果実は平和
マザー・テレサのカードより
マザーは、最も美しいものがあるところについて、次のように言っています。
最も美しいものとは、、、一体どこにあるのでしょうか、、、それは、一人一人の人間の中にあるのです。
マザー・テレサ より
24
マザーは、人々の幸せと平和を願う人でした。
世界を負かすのに爆弾や銃を用いさせないで下さい。
愛と共感を用いさせて下さい。
平和は微笑みから始まります。
あなたが微笑みたくない人にも1日5回微笑みましょう。
神の光をともして、世の中で、またすべての人々の心の中で、あらゆる憎しみや権力愛を消しましょう。
マザーの言葉に、貧しい人々はすばらしい(美しい)、という表現があります。彼女は、富める人々には無いもの(真の自由と幸福)を貧しくも精いっぱい生きる人々の中に見ていたのです。
日本語には、『少欲知足』という簡潔ですばらしい言葉があります。また一方では洋の東西を問わず、『人は持てば持つほど欲しがるもの』というような言葉もあります。
貧しい人の中で最も貧しい者は自由で、幸福です。
この人々にとって、多くのことを常に欲し、望む人々のことは何でもありません。
第三世界の貧しい人は、私たちに、満ち足りるということが、どういうことかを教えてくれます。
これは西欧の人々が忘れているものです。
マザー・テレサ インドから世界へ より
25
マザーは、自分の仕事について、彼女のしたいと思うことを次のようにも表現しています。
今のような、開発の時代に人は皆急いでいて、
何かを追いかけているみたいで、
道端には競争に耐えられなかった人たちが倒れていくのです。
こういう人たちを、私は大切にし、
こういう人たちに仕え、世話したいと思っているのです。
彼女は、自分を完全な人間とは表現せず、自分は不完全な人間であると言っています。
この地上に生まれた人間は誰も、この肉体を持って生きている限り、心身の苦悩との戦いを強いられます。マザーも例外ではなかったのです。だからこそ、その中で努力し続ける事に、大きな意味(真の価値)があるのです。
マザーにも、多くの心身の苦悩があり得たからこそ、彼女の心がけ(生き方、人生)は、通常の人々にとって、最高の模範的心がけ(生き方、人生)となるのです。
マザーは人々に自分とそっくり同じ事をしてほしいとは言っていませんでした。彼女の生き方(愛の心)が多くの人々の生き方(心がけ)の模範(見本)となる事を望んでいたのです。
マザーが生前に残した言葉は、今も生きた言葉(真実の愛の言葉)として私たちに語りかけているのです。
驚くべきことは、神様がご自分の仕事のために、
こんなに不完全な私たちを用い、
会を通して途方もない量の善をつくり出されていることです。
人と思想 マザー・テレサより
26
マザーは、小さなことを大切にするようにと話しました。
小さなことにいつでも誠実であるように努めなさい。
マザーの言うように、人は小さなことを軽く見てしまいがちです。しかし、実は一人一人の行う小さなことの中にこそ、大切な何かが、明らかな形で表現されるのでしょう。
大きなことをできる人たちはたくさんいます。でも、小さなことを大切にしようとする人は、ほんの一握りしかいないのです。
わたしたちはよく小さなことをおろそかにしてしまうのです。
マザーは、小さなことはとても大きいと言っています。それについて、彼女の信仰に基ずく真理を、次のように語っているのです。
小さなことに誠実になりなさい。その中にこそ、わたしたちの力はあるのですから。
慈悲深い神にとって、小さなものは何もありません。なぜなら、神はとても大きいからです。そして、人間はとても小さいのです。
だからこそ、神へのわたしたちの愛を証明する機会を与えてくださるために、あえて神は身をかがめられて、わたしたちにとっての小さなことをわざわざ引き起こして下さるわけなのです。
小さなことを引き起こすのは神なのですから、小さなものは本来とても大きいのです。
神は小さなことは何も行うことはできません。神のなさることは、すべてが無限なのです。
27
マザーの神への愛、イエスへの愛、そして、貧しい人々への愛、その信仰は、次のように語られています。
イエスはあなたの近くに、あなたとともにいます。ランプに火をともしていれば、いつでもイエスを見ることができます。愛の小さなしずくのすべてでランプを満たしていれば、あなたが愛する主がどんなに甘美かわかります。
満ち足りた心は、私たちのまなざし、ふれ方、書くものの中、話す内容、歩き方、受けとり方、奉仕の仕方などにあらわれます。心の充満は、このように様々な方法で表現されます。
私は、この世に生きたいと願います。神から遠く離れ、イエスの光からすっかり目をそむけたこの世に生きて、貧しい人々を助け、彼らの苦しみのいくぶんかを背負おうと思います。ただ貧しい人々と一体になることでしか、彼らを救うことはできないのです。つまり、神を彼らの生活の中にもたらし、また、彼らを神の御前に連れていくことによって。
神でさえも、神を求めない者には、ご自身を押しつけることはできません。
信仰は恵みなのです。
マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈りより
28
マザーは、人の心を、その思いを大切なものと言いました。その愛を次のように表現しています。
大切なのは、
どれだけたくさんのことをしたかではなく、
どれだけ心をこめたかです。
人を責めるのは簡単にできます。人を恨むことも、憎むことも簡単にできます。そして、怒ることも、許さないことも、感情的に人を裁くことも簡単にできます。
しかし、人を許すことは簡単にはできません。特に自分に対して、また自分の仲間(家族、友人、仲間等)に対して罪(害)をなした人を許すことはとても困難です。
一面においては、人は、気づいているか気づいていないかに関わらず、何らかの罪(害)を犯さずに生き続けることはできません。
自分が当然の事として行っていることが、人を傷つけているかもしれません。時には良かれと思うことさえも、人を傷つけているかもしれないのです。
人には、自分が許されなければならない事もあるのです。
困難ではあっても、お互いに許しあわなければ、平和に暮らす事はできません。
マザーは、真に人を愛するためには、人を許すことが必要であると語りました。
人を許すことは、非常に困難で簡単には出来ないことです。彼女は、真に人を愛するためには、許すことを知らなければならないと言っています。
もしほんとうに愛したいと願うなら、
許すことをしらなければなりません。
マザー・テレサ愛のことば より
29
ほんとうの意味で愛するということは、傷つくということなのです。
真に愛するということは、自分が傷つくことをいとわない。マザーは自分が傷ついたとは決して言っていません。しかし、傷つくほどに与えるのでなくては、マザーの言う本当の意味で愛する事にはならないのでしょう。
マザーは人に愛を与えるなら、自分が痛みを感じるほどに与えなくてはならないとも言っているのです。
マザーは、沈黙と祈り、そして行動の人でした。その彼女の語った言葉は多くの人々に愛を呼び覚まし、今でも、その心を魅了し続けています。
思いやりのある行為への最も確かな近道は、
言葉を使うことです。ただし、
他人への良いことのために使いましょう。
もしあなたが、
人のことを良く考えるならば、
人についても良く話すようになるでしょう。
言葉の暴力はとても恐ろしいものです。
どんなナイフよりも鋭く人を傷つけます。
言葉によって傷つき生まれた悲痛な苦しみは、
神の恵み以外には、癒すことができません。
マザーは言葉について、その働きを、思いやり(愛、善意)のある行為の、一つの道(方法、手段)として見ています。
同時に、その言葉を軽率に用いたり、悪意の力として用いたりすると、人を傷つける恐ろしい暴力になると言っています。
ここには、言葉が、人間にとっていかに大切なものであるかが、表現されています。さらには、マザーの体験をとおして、神の恵みが人間に与えてくれる、すばらしい癒しが示されています。
30
マザーは、祈りについて、大げさに考えなくても、誰でもおこなうことができる事を、次のような言葉で示しています。
仕事の最中でも、祈ることはできます。
仕事は祈りを妨げないし、
祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。
ただほんの少しだけ心を神に向けるだけで良いのです。
愛しています、お任せしています、
信じています、神よ、私は今あなたが必要です。
こんな感じでいいのです。
これはすばらしい祈りです。
マザー・テレサ日々のことばより
マザーは、1997年9月5日に病(心臓発作)のため、インドのマザーハウス(神の愛の宣教者会本部)にて死去、神のもとに旅立ちました(87歳)。
現在、マザーなきあともその後継者たちは、世界百カ国以上で活動し、その真の愛(信仰)を実践しているのです。
これらのマザー・テレサの言葉は、
その生涯を、真の信仰に基づき、貧しい人々に捧げ尽くした彼女から、この世の人々すべてに送るメッセージとして、ここに紹介いたします。
k-styleにおきましては、マザー・テレサのこれらの言葉を紹介するにあたり、彼女の言葉が、読まれる方々一人一人の心に正しく届きますように願っています。
これらの言葉は下記の各書物他より引用させて頂きました、ここに感謝をささげますと共に、紹介いたします。
参考文献紹介(順不同)
マザー・テレサの言葉に関する貴重な書物は数多くありますが、こちらでの紹介はその一部でありますことをおことわりしておきます。こちらの各書物はマザーの言葉を知る上での資料となっていますが、その言葉によっては、書物の重複するもの、また表現の多少異なるものもありますが、表記は一書とさせて頂きました。
k-styleにおきましては、各書物の編著者自身の、意見による内容については、特に賛否を唱えるものではありません。
マザー・テレサ語る
ルシンダ・ヴァーディ【編】
猪熊 弘子【訳】
早川書房
マザー・テレサ 愛のこころ最後の祈り
ベッキー・ベネネイト【編】
アンセルモ・マタイス
奥谷俊介【訳】
主婦の友社
マザー・テレサ愛のことば
いもと ようこ【絵】
女子パウロ会
マザー・テレサの「愛」という仕事
ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド ジャネット・N・プレイフット【編】
山崎康臣【訳】
青春出版社
マザー・テレサ 愛と祈りのことば
ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド【編】
渡辺和子【訳】
P H P 研究所
愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言
片柳 弘史【編訳】
ドン・ボスコ社
マザー・テレサ あふれる愛
沖 守弘【著・写真】
講談社
マザー・テレサ すばらしいことを神さまのために
マルコム・マゲッリッジ【著】
沢田 和夫【訳】
女子パウロ会
イエスを愛した女 マザー・テレサ 聖女の真実
アンセルモ・マタイス【著】
現代書林
マザー・テレサへの旅路
神渡 良平【著】
サンマーク出版
マザー・テレサ 愛の軌跡
ナヴィン・チャウラ【著】
三代川 律子【訳】
日本教文社
マザー・テレサ
キャサリン・スピンク【著】
新島 典子【訳】
近代文芸社
マザー・テレサ インドから世界へ
西川 潤【文】
小林 正典【写真】
大月書店
人と思想 マザー・テレサ
和田 町子【著】
清水書院
マザー・テレサ日々のことば
マザー・テレサ【著】
いなます みかこ【訳】
女子パウロ会
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