2012年5月1日火曜日

「死は終わりではない」 〜 キリストの復活とあなた 〜


死を直視する人生とは・・・?

  「人間、死ぬ時は死ぬもの。いたずらに恐れたところで、どうにもならない。死ぬことなど、くよくよ考えないで、生命保険でもかけて、後は、自分と他人(ひと)のために、今を精一杯生きることだ」と、多くの人々は考えるでしょう。

  また、ある人々は、「人間は必ず死ぬ。しかも、それがいつ来るかを知らない。この危機感が、重要であり、死の現実を避けないで、それを直視してこそ、生きている今を、大切に生きていけるのだ」と言われます。

  死と言う避けがたく、悲しい現実を、はかなむのでなく、むしろ、それをバネにして、強く生きていこうとするこの生き方は、確かに美しく立派です。しかし、よく見るとこの生き方の真相は、「死」を直視して、問題解決に積極的に取り組むと言うよりも、「死」を『所詮、どうすることもできない』、解決不可能な問題と決め込んでいる「対処療法的」な消極的態度が、その前提にあります。

  理論上は、美しく聞こえるこの考え方も、現実には、本当に死を「直視して」生きていると言えるか、疑わしい面があります。そもそも、一体、誰が、「人は、結局死ぬんだ」、と言う現実を、毎日、来る日も来る日も、直に見つめつつ、そこに希望と力、自由と喜びを発見できるでしょうか。フランスの哲人ラ・ロシュフコーは、「人間は、太陽と死は正視できない」と言いました。「私は、死を避けていない」と言う人でさえ、ほとんどの場合、現実には、「人は必ず死ぬ」と言う現実を、見つめるどころか、それを「忘れて」生きているからこそ、笑ったり、喜んだりしながら希望を持って生きていけるのではないでしょうか。

  何故なら、死の現実、死の持つ力は、考え方、見方次第で、簡単に、人生の「敵」から「味方」に、「のろい」から「祝福」に変わってしまうほど、単純で甘いものではないからです。

  アインシュタインは、「死を、私は、とうとう返済することのできなかった、昔の借金のように感じます」と評しました。また、死を前にして、たじろぐレオナルド・ダビンチと弟子達との会話がこのように記されています。「先生には、数々の素晴らしい業績や芸術作品があるではないですか」「今、死んでいく自分にとって、そんなものが何になる」「それでも、先生が教えられたことは、私たちの心の中にくっきりと焼き付いて生き続けます」「そういうお前たちも死んでいくのだ」。


ラインホルド·ニーバーは誰ですか?

  ユーゴーは、「人間は不定の執行猶予期間のついた死刑囚である」と言い、自らを無神論者と言って、はばからなかったヴォルテールでさえ、「それ、そこに悪魔がいる。俺を連れにやって来る。あれ、奈落が見えて来た。恐ろしい、恐ろしい。誰か助けてくれ!」と苦悶しつつこの世を去ったと言われています。

  東大の哲学教授であった、岸本英夫氏は、死について次のように書いておられます。「ひとたび、生命が直接の危険にさらされると、人間の心が、どれほどたぎり立ち、猛りくるうものであるか。・・・このような直接的な生理・心理的な死の恐怖の前には、平生用意したつもりであった観念的な解決は、影の薄い存在になってしまう。」

死の恐怖は、どこから来るのか?

  一体、人間の持つこの死に対する恐怖はどこから来るのでしょうか。それは、二つの点に絞ることができると思います。一つは、死によって永久に自分と言う存在が、この世から失われてしまう、永遠に宇宙の藻屑として消え去るのだ、再び愛する者と会うことはないのだ、等々の「生」に対する未練と哀惜の念が、私たちに永遠の「喪失感」と言う恐怖をもたらすのです。

  このように、人間の死に対する恐れは、肉体的破壊としての「死」そのものよりも、「生きる」ことに対する執着心とも言える、人間の実存的な欲求から出る叫びです。聖書が言うように、神によって「永遠を思い」慕うように造られた人間は、他人(ひと)が死ぬことにも、自分が死ぬことにも、また、それによって、「互いの交わり」が途絶えてしまうことにも耐えられないのです。

  しかし、私たちが死を恐れるもう一つの理由があります。それは、、人間は、死後にどこに行くのか、死後に何があるのかについて全く無知であり、不安であるが故の恐れです。即ち、「死後の世界」なるものはあるのか、いわゆる天国・地獄なるものは本当にあるのか、あるとするなら、人は死んだ後に、自分の人生に関して、神の裁きの前に立つのか、等々の疑問から来る不安と恐れです。

  これは、人間の持つ道徳的本質に根ざしています。人間は、神ご自身がそうであるように、自由意志を持ち、愛と善悪を知り、それを自由に選ぶことのできる「道徳的」な存在として、神様によって造られました。

  それ故に、人間は、自らがその歩みに対して、道徳的に神と人との前に「言い開き」をしなければならない責任を持った存在であること、そして、その人生の「清算」が、死の後に来ることを、心のどこかで本能的、直感的に知っているのです。


ときにイエスがキリストになったのですか?

  ある人々は、良心の呵責などと言うものは、人間が、社会的共存のための方便として、その文化の発達と共に、道徳や宗教の助けを借りて生み出して来た歴史の産物に過ぎないと主張します。しかし、この良心の呵責、或いは、神の裁きへの恐れは、社会や文明と言うものが、まだ未発達の人種や部族の中にも見られるのです。何故なら、「良心」の働きは、後天的に植え付けられたものではなく、人種・文化・歴史を越えて、すべての人間が、神から与えられて、生まれながら本能的に持っているものだからです。

死よ、お前の勝利はどこに?

  さて、それでは、冒頭の三浦綾子さんの言葉にあった、「じっくり死に向かいあう」人生とは何でしょうか。それは、単に、「私たちの人生には、必ず死がやってくる」と認識すること以上のことではないでしょうか。死を直視して生きる人生とは、単なる「対処療法」を越えて、その問題の抜本的な解決を積極的に求め、それをもって人生を生きることです。

  聖書は、そのような人生を求める方々に「福音」を提供しています。それは、イエス・キリストの「十字架と復活」の福音です。歴史と文化を越えて、全人類を、生涯「奴隷」として来た「死」の解決、即ち、人間の永遠の希求とも言うべき「死」の解決こそが、イエス・キリストの福音の中心です。パウロは、このことを次のように聖書の中で表現しています。


女性はobay必要があります
  私は今、あなた方に福音をしらせましょう。これは、私があなた方に伝えたものであり、あなた方が受け入れ、それによって立っている福音です。 私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、次のことです。キリストは、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから12弟子に現れたことです。(Tコリント15章1−5節)

  パウロは、更に同章で、「死のとげは罪であ」ると述べ、私たちが、死を恐れる理由を、人間の「罪」のゆえであると指摘しています。そして、彼は、「神は、罪を知らないお方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Uコリント5章21節)と記し、イエス・キリストが、十字架にかかり、神の前に私たちの罪の身代わりとなって、呪われ、罰せられたがゆえに、私たちの罪が赦され、神の前に義とされ、神の子として受け入れられ、更には、イエス・キリストの復活によって、罪の結果である死の呪いの終焉が宣言され、たとい死んでも、神と共に生きる永遠の命が与えられるようになったことを、「福音」として、こ� �に伝えているのです。

  ここに、イエス・キリストを信じるものが――勿論、暫くの別離の悲しみはありますが――死に際し、死後の世界への不安と恐れ、神の前に裁かれることへの恐れ、永遠の別離への恐れから、救われ、パウロと共に、「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。お前のとげはどこにあるのか。神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と、死に対する勝利の宣言をすることができる理由があるのです。

  このように、太古の昔から人間の最大の敵であった死に対する勝利。また、それがゆえに、如何なる逆境の中でも、持つことができる人生の究極的な勝利への確信。これらがあったからこそ、イエス・キリストの捕縛と十字架を前にして恩師を捨て、まるでくもの子でも散らすように逃げ出して行った、あの「臆病」の弟子たちが、イエス・キリストの「復活」を境に変わって行ったのです。そして、遂には、迫害をも、死をも恐れない果敢なキリストの弟子たちとなり、彼らの手で、キリスト教が、世界の果てにまで運ばれて行ったのです。


  イエス・キリストの復活が事実であったことを証明する状況証拠は数多くあります。ハーバード大法学部の教授であるSimon Greenleaf博士 (最高裁判事となったJoseph Story氏の後任として、同大学の栄誉ある Dane professor of Law の席に就かれた)は、今も尚、その分野で、最も権威ある著作の一つとして知られている、"A Treatise on the Law of Evidence"を著されました。彼は、この本の中で主張した法的原理を、イエス・キリストの復活に関する歴史的証拠に適応して、もう一つの本を著されました。その中で、彼は、今日一般の法廷で用いられている法的証拠の原理に照らすとき、イエス・キリストの復活が、歴史的事実であることは、他の如何なる歴史的な出来事よりも明らかである、と結論づけました。

  しかし、ここで他の如何なる証拠にも勝って強調したいことは、上述した「弟子たちの変化」です。それは、彼らが「イエス・キリストは、死者の中からよみがえって、今も生きている」と言う劇的な信仰を持つことなくして、到底説明し得ない変化でした。ある人々は、それは、彼らが、絶対的にまで慕っていた指導者を、無残な形で奪われた精神的ショックを埋め合わせようとして、無意識のうちに生まれてきた「イエスは甦った」と言う精神的妄想の結果であるとします。しかし、そう結論するには、復活の証人の数が余りにも多く、証人のタイプも多岐・広範に及んでいること、また、その証言そのもののが、比較的長い期間に及んでいること、更には、その証言が及ぼす影響も長きにわたり、しかも、妄想者が生み出す 影響は、通常もっと破壊的、奇異・奇矯なものであるのに比べて、この弟子たちのもたらした影響は、むしろ、まだまだBarbaricであり、不道徳の蔓延していたローマ社会に、高い道徳的水準と秩序を提供し、建徳的な影響を与えて行ったのでした。

  このように、イエス・キリストの復活に対する信仰は、私たちの生涯を変え、人生の如何なる状況の中にも消えない「希望」を与えます。昨年の9月11日のあの痛ましい事件の日、テロリストと飛行機内で闘い、その命を失った人達の一人Todd Beamer氏の未亡人Lisaは、イエス・キリストにあるこの復活の信仰を持っています。彼女は、こう言っています。

  "I personally do have hope even in the midst of my circumstances. What keeps me going is just knowing that this world isn't all there is.・・・・Ultimately, God is in control. He is going to be in charge of events." 


  悲しみと苦しみの中で、彼女を支え、希望と生きる力を与えているのは、「今見ている、目の前にある世界がすべてではない。死んで向こう側までつながっている『復活』の世界がある。そこで、夫は待っている。その世界まで計算にいれる時、初めて人生の帳尻が合う。それを合わせて下さるのが神様である」と言う信仰です。これが、イエス・キリストの「復活」を信じる者の生き方です。死は、人生の終わりではありません。

 



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