ヨハン早稲田キリスト教会-モーニングチャペル: ヨシュア記アーカイブ
場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2006.11.23
聖書本文:ヨシュア記6:8-27
主題:神の徹底した裁きと救い
今日の本文はエリコ城の陥落の本文であります。主はヨルダン川を渡り、約束のイスラエルの地に辿りついてまず始めにエリコの城を攻める事を命じました。その為にすることは、まずエリコの城を攻める前に城の周りを毎日1回ずつ回ることを命じたのであります。そして7日目は城の周りを7回回り、その後にときの声をあげる事を神様は命じたのであります。ここにはどのような神様の御心があるのでしょうか?
まず、一つ目に神様は私達が主の御心と導きに従って神様の働きをすることを願っておられます。常識的に考えて、エリコの城を攻めるのにこのような働きは常識外れであります。
ヨシュア6:9 武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。
というように、契約の箱を担いだ祭司が真ん中を進み、その前と後ろを武装兵が守るという陣を敷いていました。しかし、契約の箱を担いだ祭司が戦いに役に立つことは考えられません。なぜ、神様はこのような配置で7日間もエリコ城を回ることを命じたのでしょうか?
まず、一つ目に、霊的な戦いは神様を中心にして戦うという事をイスラエルの兵に教えるためでもあります。エリコの戦いは、イスラエルの民が約束の地において初めての戦いでもあります。その中で、神様はイスラエルの民が自分達の力を頼りに戦うのではなく、何よりも神様を中心にして戦う事を心に留める必要がありました。それ故に、神様は神の箱を中心にして軍隊を布陣することで、そして7日間も回らせることで、この戦いは神様中心の戦いであることを強烈に認識させたものであります。私達の働きもそうです。全てのクリスチャンの働きは霊的な戦いの中にある事を心に留める必要があります。その中で私達は何よりも霊的な戦いの主権は神様が握っておられ、戦いを左右するのは神様であることを心に留めましょう。人間的な力に頼ってはならないのであります。
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ただ神様の霊によって全ての力ある業は成し遂げられるのであります。私達が罪から救われたことも、人間の知恵によるのでもなく、権力によるのでもなく、ただ神様の霊である聖霊様の働きによって成し遂げられた事を感謝しましょう。そして、全ての働きを神様の御心を中心に考えて行うようにしましょう。このエリコ行進は戦いの常識とはかけ離れています。それだけに、それを行う人々の心には神様に対する絶対的な信頼が必要であります。なぜなら、城壁の周りを回ることは非常に危険です。城壁の上から矢を射られたら、皆死んでしまうからです。だからこそ、この働きは神様に対する信頼がなければなりませんでした。これはイスラエルの兵士達の神様への信頼をテストする大きな試金石になった訳です。� ��より神様の守りを信頼しない不信仰な戦士達はこの行進には加わらなかったはずです。神様の命令は私達に何を願っているんでしょうか?それは、私達の能力でも知恵でもなく、主への信頼と忠誠です。
創世記3章で、神様がアダムとエバに善悪の木の実を食べるなと命じたのは、何よりも主への信頼と忠誠を試しました。サタンが誘惑したとしても、神様への信頼と忠誠を失わないか、これを神様はアダムとエバに命じたのです。残念ながら彼らはそのテストに失敗しました。私達はそのような事がないようにしましょう。神様は御自分を信頼し、忠誠する者を求めております。私達は神様の守りを信じてエリコ城を回った戦士のような者になりましょう。
2つ目にエリコ城の行進は、何より『祈りの行進』であった事を心に留めましょう。
ヨシュア6:10 ヨシュアは、その他の民に対しては、「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じた。
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これは厳しい命令です。ときの声をあげよと命じる日まで、叫んではならないという命令です。つまり人と話せないのです。口から言葉を発してはならないということです。つまり、人と話さない、それならば私達は神様に話すしかありません。他の人間と相談する余地はありません。ならば神様と相談することです。エリコ行進は黙想の内に、祈りの内に行われなければなりません。動的な、ダイナミックな働きの前には、それに先立つ静的な働きが必要です。大きな霊的な働きをする前には、必ず御言葉の黙想と祈りがなければなりません。私達は来週から大きな霊的な働きをしようとしています。そして今週からアルファコースの集まりも始まりました。霊的な戦いが間近に迫っています。それならば、ますます私� ��は誰か彼かと叫んで話し合うのではなく、まず神様に向き合いましょう。そして祈りと御言葉の黙想の内に神様の御心を悟ることです。神様はこれを全てのクリスチャンに望んでおられます。QTの時間、個人の祈りの時間、一日の内にやるべき事は沢山あります。しかし、ルターが私は普段は1日2時間祈ったが、忙しい日は3時間祈ったというように、何よりもクリスチャンは祈りの働きが最重要課題です。それを心に留めて日々の祈りと御言葉に忠実でありましょう。
イスラエルの民はエリコ城を7日間に渡って回り、そしてときの声をあげました。その時にエリコの城は崩れ落ちたのです。地震によるのか、又は超自然的な神の力によるのか、それは分かりません。しかし、神様への信頼と忠誠を7日間に渡って守り通したイスラエルの民の上に大きな神様の奇跡の御業が起こったのでありました。7とは完全な数字を意味します。神様が私達に願っているのはただ7日に渡る信頼と忠誠ではありません。黙示録2章10節に書いてあります。『死に至るまで忠実であれ。そうすればあなたに命の冠を授けよう。』私達は死に至るまで主に信頼と忠誠を尽くしましょう。そのような信仰者に神様は大きな報いをくださいます。
神様の奇跡により崩れ落ちたエリコの住民に対して命じた事は何でしょうか?
ヨシュア6:17 町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした使いをかくまってくれたからである。
祭司たちは何をするのでしょうか?
ここに、神様の裁きの恐ろしさと恵みの大きさが同時に記されています。まず、エリコの住民に対する裁きは徹底していました。
6:21 彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
とあるように、どんな人であってもエリコの住民ならば、そしてどんな動物でも生きているものは剣にかけて滅びなければならないのです。つまり、何の区別もありません。もしも神様に従わないならば、老若男女を問わず、神様の裁きは必ずやってきます。そこには何の区別もないのです。このようにして、神様は裁きを徹底的に行われることを心に留めましょう。ある人はこういう人がいます。神様は、何故オサマビンラディンを裁きにより滅ぼさないのか。又世界中で悪い事をしている悪徳政治家ややくざ、強盗や詐欺師を滅ぼさないのか。そのような悪い人間は世の中から消し去ってしまえば良いのに、神様は何故それをしないのか。そうすれば世の中が良くなる。そうしないなんて、神様は実は存在しないんじ� ��ないか・・・こういう人がいます。しかし、そういう人は重要な事に気づいていません。神によって厳しく裁かれる人の中に自分がいるということに気づいていないのです。世の中の悪徳政治家や強盗や詐欺師は神によって消されるべき。しかし、自分は正しい人間だから違う。それこそが間違っています。神様がこの世の中から罪を取り除こうとするならば、その裁きは徹底しています。誰一人罪ある人間は逃れる事ができません。終末の神の審判はまさにそうです。そしてエリコの住民への裁きも徹底していました。神様は罪とは妥協できないのです。どんな小さな罪でも妥協できないのです。それが10歳にも満たない子供が犯す過ちであったとしてもです。故に、私達は神の裁きがいかに恐ろしい事かを悟るべきです。
そしてもう一つ、この裁きは神様の大いなる忍耐の後にやって来たものであることを心に留めましょう。
創世記15:16 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
これは、アブラハムに約束した神の言葉です。それまでは、アモリ人の罪が極みにたっしないからである。つまり、神様はその当時も堕落していたアモリ人や、カナン人に対して罪への憤りがありました。しかし、神様はその罪が極みに達していないが故に忍耐されたのです。そして、この御言葉によれば、エリコの住民達の罪は極みに達していたということです。誰も弁明できることがないほどにです。神様はつまりその恐ろしい裁きの前に400年間忍耐されたということであります。
2ペテロ3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
このように、神様は一人一人が悔改めて主の前に進み出るのを忍耐しながら待っておられます。その神様の愛と恵みを知るものになりましょう。神様は何の前触れもなく裁きを下すお方ではありません。人間一人一人を愛しているからです。たとえ神様の反逆して大きな罪を犯している人であってもです。だからこそ神はエリコの住民に400年間忍耐されました。そしてその罪が極みに達していたので、彼らは滅ぼされたのです。ここに神様の義があります。神の義を畏れつつ敬う者になりましょう。
そして、もう一つは神の救いの恵みです。そのような罪の極みにより、誰一人救われないように思える中に救われるのに相応しい人がいました。それはラハブです。彼女は何故救われたんでしょうか?彼女の家柄が良かったんでしょうか?頭が良かったんでしょうか、日頃の行いが良かったんでしょうか?まったく当てはまりません。彼女は遊女です。行いも品性も正直常識的に考えてよくありません。しかし、神様はただ一つ彼女に認めた事があります。それはラハブの信仰です。迫り来るエリコ住民への裁きの中で、ただラハブだけには神を畏れる信仰がありました。その信仰ゆえにラハブは救われたのです。学歴ではありません。社会の権力ではありません。神様は信仰ある者を救いに導いてくださいます。神を� ��め、その前にひざまづく覚悟のある者は神の前に進み出ましょう。主が全ての問題を解決してくださいます。私達は何より祈ることです。神様が最後まで喜ばれるのは、その人の信仰です。そして信仰に伴う行いです。ラハブの学歴、知恵、能力、おそらく私達の方がはるかに大きいです。しかし、彼女が認められた事を心に留めるべきなんです。そして彼女の父の家族も、彼女に属するものも滅びのリストから削除されたんです。それはただ彼女の信仰の故です。信仰の強さが神様の御業を引き起こします。信仰を持って祈ることです。彼女の信仰による救いは結局彼女の父の家族にまで及んだんです。それが神様の祝福です。神様の祝福は自分一人だけ及ぶものではありません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあな� �の家族も救われます。」これは主の救いと祝福が自分一人で終わるものではありません。そういうことです。
私達はラハブのように、ただ信仰により救われました。その恵みの救いに心から感謝しましょう。誰かの祈りが誰かを救いに導いたのです。最後に、今日も高尾山の祈祷登山です。ある意味これも霊的な働きです。祈る心をもって参加しましょう。
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