イエスのたとえ話
イエスのたとえ話
「私の隣人とは誰のことですか?」
ルカ10:25-37
2010年5月1日&2日
デニス・フォールズ牧師
はじめに
l 神の恵みによって、神の栄光のために、TBC@三郷で4月25日(日)に第1回目の礼拝が行われ、正式にスタートしました。約175名が出席し、1名がキリストを受け入れました!
l TBC@三郷のために引き続きお祈りください。また、皆さんも1か月に1度はTBC@三郷の礼拝に出席されるようお祈りください。
l TBCの予算・会計報告書を金曜日にTBCメンバーに郵送しました。会計年度は2010年6月1日から2011年5月31日までです。
l ジュディと私は、9月第1週から始まるスモールグループのために、ピリピ人への手紙の教材を執筆中です。
祈りましょう。
今日は、「イエスのたとえ話」シリーズの最終回です。来週からは「聖書の難しい教え」というタイトルの新しいメッセージシリーズが始まります。
今日のたとえ話の箇所では、「立ちあがり、イエスを試そうとした」と聖書に書かれた「ある律法の専門家」にイエスが語っています。この律法の専門家は、私たちが知っているような現代の弁護士ではなく、おそらく神学校の教授のような、宗教の専門家です。ルカ10:25によると、その専門家は「イエスを試そう」「イエスを罠にかけよう」としました。彼がイエスにした質問は、誰もが聞きそうな最も重要な質問でした。「先生、永遠のいのちを得るために、私は何をしなくてはいけないでしょうか?」
日本の社会でも、またTBCでも、このような質問を耳にすることは滅多にありません。よくある質問は、どのようにしたらもっと良い仕事につくことができますか? もっとお金を稼ぐにはどのようにしたらよいですか? どのようにすれば自分にもっと自信を持てますか? よりよい結婚生活を送るにはどうしたらよいですか? より家庭を円満にするにはどうしたらよいですか? どうしたら孤独な気持ちを取り除けますか? 鬱から脱出するにはどうしたらよいですか? 私の人生に対する神の御心を知るにはどうしたらよいですか?
しかし、「永遠のいのちを確実に受けるには、私は何をすべきでしょうか?」という質問を受けることは滅多にありません。「どのようにしたら私は地獄に行くことを免れ、天国に行けるのでしょうか?」と私に聞いてくる人は滅多にいません。
ここで少し時間を割いて大切なことをお話しましょう。これは『グッドニュースクラス』という日曜日のクラスでのメインテーマであり、ゴスペル・パティオで祈り福音を伝える人たちにとっても大切なことであり、スモールグループにとっても、両親や親しい友人にイエス・キリストを伝えたいと強く願う人すべての人にとって大切なことです。あなたが誰かに福音を伝えようとするなら、いつも問題となるのは「永遠のいのち」です。これが問題です。TBC@三郷を成長させようとするなら、本当に大切な質問は「永遠のいのち」に関することなのです。
イエスはあなたに、健康、富、成功、よりよい仕事、完璧な結婚、すばらしい家族、問題からの解放、友人について、何1つ約束してはいません。数週間のうちに、玉川聖学院を訪問する東京ミッショントリップが行われます。その目的が福音伝道であるならば、永遠のいのちは大切な問題です。救いは次の人生に関することであり、この地上の人生に関することではないのです。ですから、もしあなたがだれかに福音を伝えようとするなら、この地上の人生に焦点をあてるのでなく、次の人生のことを考えさせるようにしなければなりません。TBCでは、福音伝道の焦点は、いつも「永遠のいのち」に関することであるべきです。私がこう言うのは、「よきサマリヤ人のたとえ」としてよく知られている(聖書の中ではこのように呼ばれてはいませんが)、このたとえ話の核心だからです。
ルカ10:25-37(新改訳)
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
どのように我々は崇拝しない
29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
25節の質問に気づきましたか? この人は「先生、私が神様に受け入れられるための必要条件は何ですか?」と尋ねています。イエスは「律法には何と書いてありますか?」と聞きました。この律法とは、旧約聖書の最初の5書の『モーセの律法』と呼ばれるもので、十戒に要約されます。その人は27節でこう答えて言いました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」 すると、イエスはその宗教専門家に言いました。「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 なぜイエスはこのように答えたのでしょうか?
なぜならイエスはその宗教専門家が律法を100%完全に守ることはできないことを知っていたからです。皆さんの中には、永遠のいのちを得るために自分に何かできることがあると思っている人が、まだいるかもしれません。イエスはあなたに言われています。「それを実行しなさい、つまりすべての律法を守りなさい、そうすれば永遠のいのちを得ます」ちょっと調べてみましょう。ここにいる皆さんの中で、十戒を1度も破ったことがない人がいたら手を挙げてください。いらっしゃいますか?
手を挙げないでください。もしあなたが手を挙げたら、「偽りの証言をしてはならない」という十戒の1つを破ることになるからです。いいですね。ですから、私たちは皆、永遠のいのちを得るために何かを「する」ことはもうできません。私たちは助けが必要です! 永遠のいのちは、良い行いや、宗教的な戒律や儀式を守ることによって得られるものではありません。永遠のいのちとは、イエス・キリストとの関係であり、イエス・キリストを信じる信仰を通して得られる恵みによるものなのです。
覚えておいて下さい。これは教えのために、イエスが話したたとえ話なのです。実際に起こった出来事についてではなく、大切な教えを教えるためのたとえ話なのです。たとえ話全体が「質問」に焦点があてられていることに皆さんは気づくでしょう。
1.当たらずとも遠からずの質問(25節)
その人は、「先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と尋ねました。
その宗教専門家は、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と尋ねました。良い質問のように聞こえますが、イエスはご自身も質問で、その人に答えました。イエスは4福音書で300以上の質問をされたと、私は最近ある本で読みました。私は自分で数えたことはありませんが、その数が正確であったとしても納得できます。イエスはいつも人々に耳を傾け、質問をされました。イエスは「あなたはどう思いますか?」と聞かれます。正統派ユダヤ教徒の人たちは、毎朝シェマーを唱えます。シェマーは力を尽くして神を愛することを語っています。しかし、この抜け目のない宗教専門家は、レビ記19章から隣人を愛することについての忠告も付け加えました。
イエスは、「よい答えだ!」と言われました。
マタイ22:35で、律法の専門家がイエスに、律法の中で最大の戒めは何かと質問しました。イエスの答えは同じでした。イエスは言われました。「あなたの持てるものすべてで、あなたの神である主を愛しなさい。そして次に大切な戒めは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいということです。」
そして、イエスはマタイ22:40で言われました。「すべての律法と預言とが、この2つの戒めの上に成り立っているのです。」こうした背景をふまえて、イエスはルカ10:28で宗教専門家にこう言いました。「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」 「いのち」にあたる単語は、健康や生物学的な命に関連するギリシャ語の単語「bios」ではありません。「zoa」という単語が使われ、それは「豊かな意義のある人生を送ること」を意味します。
宗教専門家の質問は、当たらずとも遠からずの質問でしたが、ここで重要なのは
不安のために聖書の読書
「当たらずとも遠からず=不正解」ということです。
宗教専門家の質問には、間違った答えに導いた小さな単語が1つ入っています。どの単語だかわかりますか?もう一度25節の質問を見てください。もうわかりましたか?
ヒントは、宗教専門家が何を探していたかです。何ですか? それは「永遠のいのち」であり、その人は「永遠のいのち」を得るために何を「しなければ」ならないのかと尋ねました。
「永遠のいのち」は人生の最大の課題ですが、あなたの「行い」によって与えられるものではありません。
永遠のいのちを探し求めることは、時間の良い使い方であり、ここにいる皆さん全員が、永遠のいのちを持っていると確信するまで探し求めるべきです。しかし、それを得るためにしなければならないことは何もないのです。それを得るとき、それをずっと持ち続けるにしても失うにしても、そのためにしなければならないことは何一つないということを、あなたは知る必要があります。アーメン!
私たちは、永遠のいのちを得るために、何もできることはありません。イエスが既に必要なことをすべてしてくださったのです。イエスは十字架上で死なれ、葬られ、死からよみがえられました。イエスはすべてしてくださったのです!あなたが何かを受けるためにしなければならないことは、何一つないのです。私の両親が亡くなった時に、なぜ私たち兄弟が古い家を相続したのでしょうか? それは私が家族の一員だったからです。私はそのために何も「する」必要はありませんでした。
イエスは、ヨハネ17:3でこう言われました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」(新改訳)
覚えておいてください。このたとえ話全体は、3つの質問に焦点を当てています。
1.当たらずとも遠からずの質問(25節)
では、2番目を見てみましょう。
2.間違った質問(29節)
しかし、宗教専門家は自分を正当化したかったので、イエスにこう聞きました。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
その人は、自分を正当化したかった、すなわち、自分を良く見せたかったのです。自分が正しく神に喜ばれる者であると見せたかったのです。ですから「私の隣人とは、だれのことですか」と、イエスに尋ねました。彼は宗教専門家でしたから、すでにその答えを知っていましたが、イエスがお答えになる時、その場で聞いている人たちや神の目に自分が正しく映るだろうと考えました。
今日ここから学べることは何でしょうか? 現代の人たちは、他の人たちが、自分の善良さや親切、品行を見れば、自分が良き市民であり、正当化され、人々や神の前で義とされるだろうと考えます。しかし、それは間違っています!人の前では正当化され義とされるかもしれませんが、イエス・キリストだけが神の前であなたを義とすることができるのです!その人は間違った質問をしました。「私の隣人とは、だれのことですか。」
「私の隣人とは、だれのことですか。」とは、とても良い質問のように聞こえますが、的外れなのです。なぜなら、
l ユダヤ人は、隣人をとても明確に定義するからです。
l 「永遠のいのちを自分のものとして受ける」という大切な点を見落としたからです。
「私の隣人とは誰のことですか」という質問から、彼のようなユダヤ人律法専門家たちは議論を始めてしまうかもしれません。イエスは、その専門家と神学的な議論をし始め、旧約聖書のレビ記19章から「隣人」にあたるヘブル語の単語の語源をたどる可能性もありました。
ユダヤ人宗教専門家と群衆は、もしイエスが次のように答えたならば、何も問題を感じなかったでしょう。「あなたの隣人とは、近隣に住んでいる人のことであり、その人が自分と同じようなら、その人はあなたの隣人です」もしイエスが、「あなたの隣人とは、ユダヤ人のことです」と言ったなら、すべての人は満足し、同意したでしょう。このような答えを彼自身が望み、イエスがそう答えるだろうと思っていました。
しかし、神学的な説明や文化人類学に関するセミナーをするのではなく、イエスは簡単なたとえ話を話されました。イエスは30節でこの話を始めます。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。」イエスは、この人がユダヤ人かも異邦人かも言っていません。なぜなら、結局それはどうでもいいことだったからです。しかし、その偉いユダヤ人宗教専門家にとっては、それが重要なことだったのです。
30節「強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」
強盗がその人の着物をはぎとったという事実が問題を引き起こしました。当時、人の文化的アイデンティティは、着ている物で判断されました。現代でもアラブ人とユダヤ人では着るものが異なります。しかし、この人が裸にされたため、通り過ぎる人々はその人がユダヤ人か異邦人か見分けることができませんでした。
聖書から単語を発音する方法
31-32節「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」
最初の2人は「宗教専門家」ですが、その人を無視したことに注目してください。その人が服を着ていなかったので異邦人かもしれないと、宗教専門家たちは恐れました。正統派ユダヤ教徒は異邦人をひどく嫌っていました。2人はその人に手を触れようともしませんでした。
ユダヤの物語にはたいてい3人が登場します。2人の失敗の後で、聞き手は次の登場人物が英雄だろうと期待しました。当然3番目の旅人は、傷ついた見知らぬ人を助ける一般的なユダヤ人だろうと想像しました。しかし、イエスのたとえ話には、もう1つ大きなサプライズがありました。
33-34節「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし」
旅行者はたいてい旅行時には包帯や救急箱を持ちあわせていません。みなさんはどうですか?そのけが人は裸だったので、明らかにこの旅行者は自分の衣服の一部を引き裂いて、その見知らぬ人の傷の周りを縛ってあげたでしょう。その人のオリーブ油とぶどう酒は、旅行に持ってきた小さなランチや弁当の一部でしょう。しかし、この旅行者はそれらを見知らぬ人の傷を清潔にし、回復させるために用いました。当然その人は重傷で歩けなかったでしょうから、
34-35節「自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 次の日、彼はデナリ2つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 」
イエスが、宗教専門家とその場で聞いていた群衆にした、このたとえ話のポイントは、36節にあります。
思い出してください。そのたとえ話全体が、3つの質問に焦点を当てています。
1.当たらずとも遠からずの質問(25節)
2.間違った質問(29節)
3番目を見てみましょう。
3.正しい質問(36節)
36節「この3人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
宗教専門家は37節でこのように言いました。「その人にあわれみをかけてやった人です。」その専門家は「サマリヤ人」とさえ言うこともできず、「あわれみをかけてやった人です」と言いました。
ここに、イエスのこのたとえ話が教える3つの信仰の原則があります。
1.自分の力で救いを得ることはできない。
2.人種的偏見を持つことは間違っている。
3.愛とは、感じること、行うことである。
33節「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」
クリスチャンとして、あなたにはイエスの思いやりが必要です。
マタイ9:36「(イエスは)また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(新改訳)
あなたは、群衆すなわち自分の知らない人たちに対して、どのように対応しますか? 深い同情を持って接しますか? それとも冷淡に感情を交えずに接しますか? 「急いでこの群衆から離れよう」と思いますか?
イエスは、すべての神の命令が次の2つの原則に要約できると言われました。
l 神を愛しなさい。
l 隣人を愛しなさい。
あなたは実行していますか? 第1ヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(新改訳)
適用
私は誰の隣人となり、親切と良い行いをもって助けられるだろうか?
TBC@渋谷の近隣の方々は、私たちを良き隣人と見ているでしょうか? 近隣、遠方全ての人に対して良き隣人となることが、TBC@三郷の最善のスタートだと、私は思います。
前にも言ったことですが、
良い第一印象を残すチャンスは、一度きりしかありません。
ですから、初めて来られたゲストの方々に対して愛を表現することが大切なのです。TBC@渋谷とTBC@三郷のために、親切な行いを準備することが、イエスの言われた教えなのです。愛を試すのに最も良いテストは、お互い知っている人を愛することではありません。それは簡単なことだからです。
「隣人を愛する」聖書的な理由
イエスはマタイ5:46-47の山上の説教の中でこう言われました。「自分を愛してくれる人だけを愛したからといって、取り立てて自慢できるでしょうか。ならず者でも、そのくらいのことはしています。気の合う友達とだけ親しくしたところで、ほかの人とどこが違うと言えるでしょう。神を信じない人でも、そのくらいのことはします」(リビングバイブル訳)
イエスは、マタイ5:44で「隣人を愛する」以上のことも言われました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(新改訳)
しかし、このたとえ話の中で、イエスは、隣人というのはあなたの親切から益を受ける人すべてをも意味すると、適用範囲を拡大しました。それは全く知らない人をも含めるのです。ですから、TBCスチューデントミニストリーが、渋谷で清掃し、親切な心で「隣人を愛すること」を表現しているのです。
親切と救いを混同する人たちもいます。クリスチャンは親切であるべきですが、親切だからクリスチャンになるのではありません。親切であるからといって天国に入れるわけではありません。イエスを知ることによってのみ、天国に入ることができるのです。クリスチャンとして、私たちは救いを得るために隣人を愛するのではありません。私たちが隣人を愛するのは、イエスを通して、神の愛と恵みを知っているからなのです。神の恵みを表すために、隣人に対して親切になるのです。
実生活にあてはめてみましょう: 親切でありなさい、しかし、その親切さによっていつも神に栄光を捧げなさい。
しかし、もしあなたが親切で愛のあふれる人であっても、その親切さが神との関わりなく行われているなら、その親切を受けた人たちはあなたに栄光を与えようとするでしょう。あなたはなんていい人だ、親切な人だと、彼らは言うでしょう。しかし、神こそがいつもその称賛と栄光を受けるべき方なのです。
コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」(新改訳)
重要な質問
TBC@渋谷とTBC@三郷は、すでにここにいる皆さんの必要を満たすためだけに存在しているのでしょうか?
TBC@渋谷とTBC@三郷は、クリスチャンでない方々に、キリストの恵みと愛を持って福音を伝えるためにあると私は信じています。その方々が救われ、洗礼を受け、成長したクリスチャンへと導かれるためにあるのです。つまり、神の栄光のためにあるのです。この美しい日曜日にTBCにふと立ち寄られた方々に、何か恵みと愛を示しましょう。例えば、コーヒーポットやポップコーンマシーンを用いて、TBCが他と違うことを示す行動を起こしましょう。
実践:行動を起こしましょう!
第2コリント5:14「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」(新改訳)
第1ヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」(新改訳)
l 「私は永遠のいのちを受けるために何をすべきでしょうか」という質問に答える祈りをしましょう。どうぞ前で、また外のゴスペル・パティオで祈りましょう。
l 人を愛していないこと、自分の感情を害した人を赦していないことを、赦していただく祈りをしましょう。どうぞ前で、また外のゴスペル・パティオで祈りましょう。
l TBC@渋谷、TBC@三郷、リバイバルのために祈りましょう。どうぞ前で祈りましょう。
祈りましょう。
デニス・フォールズ
2010年5月1日&2日
TBC@渋谷 & TBC@三郷
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